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2009年2月

オバマ大統領と福沢諭吉~二人の賢人は危機を救う~

2009年1月25日のオバマ米国大統領就任式の模様をCNNで見た。ワシントンDCは全米各地から大勢の人(200万人以上とのこと)が押し寄せ、大変な活況だった。新大統領の就任演説は日本時間の深夜ゆえリアルタイムでは聞けなかったから、後日インターネットでチェックしたのだが、少なからず感動してしまった(それにしても就任演説の全文が、原文と翻訳の両方ともに、ネットで直後に入手可能とは、便利な世の中になったものです)。そして、やはり米国はまだ捨てたものじゃないな、素敵な国だな、と感動し率直にうらやましく思った。
 
彼の演説がどのように感動的だったかというと、おそらくそれは自分の今の心情とシンクロナイズしているからだと思うのだが、米国民にしっかり地に足をつけた生活をする価値を思い起こさせたことだ。そして、国民は国家から何を享受出来るかを考えるのではなく、国家に対して何が出来るかを考えるべきだと、呼びかけたことだ。これは自分のハートを打った。今の自分は、地に足をつけた生活をする事の大切さを痛感しているし、社会のために奉仕する精神が国を救い、自分をも救う事を理解出来るからだ。この部分は、ジョンFケネディの大統領就任演説の有名なフレーズ、“そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。”を思い起こさせる。もちろん両者の言い回しは異なり、オバマ大統領の方は、“アメリカ国民は、自分自身に対して、国家に対して、世界に対して責任を負っている”と表現している。要するに両者とも、自分が社会から何を受け取れるかではなく、何を与えられるかを考えることが、アメリカ再生の鍵である、といっているように思える。国民の一人一人が、国を変えていこう、国を支えていこうとする気概を持たなければ米国は再生出来ないだろうが、アメリカは必ず再生すると彼は断言するのだ。なぜなら米国民は、祖先の偉大なる建国の精神を引き継いでいるからという。
 
アメリカ建国の精神に言及した部分はとても素敵なフレーズなので、少し引用してみます。「目の前に広がる道を眺めながら、まさに今この時、遠い砂漠や遥かな山岳で警備にあたっている勇敢なアメリカ人達を思い、謙虚に感謝します。今の兵士達は多くのことを教えてくれるし、アーリントンの国立墓地に眠る戦死者たちは時を超えて囁き続けています。兵士たちを称えるのは、私たちの自由を守ってくれるからだけではなく、奉仕の精神を体現しているからです。自分たちよりも大きな何かに意味を見いだそうという、その意欲のことです。そして今この時、私たちの時代を決定付けようというまさにこの瞬間、私たち全員に求められているのは文字通り、この奉仕の精神なのです。」「それはたとえば、防波堤が決壊した時に赤の他人を自分の家に迎え入れる優しさだったり、仲間が職を失うのを見るよりは自分の勤務時間を減らした方がいいという無私な労働者の思いやりであり、そういう心持ちが真っ暗な時代を乗り切るのに必要なのです。私たちの運命を最後に決めるのは、煙が充満した階段に飛び込んでいく消防士の勇気もそうですし、あるいは子供を育てようという親のやる気でもあるのです。」「しかし、私たちが成功するには、勤勉や正直、勇気や公平、寛容と好奇心、忠誠と愛国心といった価値観が必要なのです。昔からの古い価値観です。真実の、本物の価値観です。そういう価値観こそが、私たちの歴史をずっと静かに前進させて来たのです。今何が求められているかというと、こういう真実に立ち返ること。今、私たちに求められているのは新しい責任の時代に入ることです。すべてのアメリカ人が、自分たち自身への責任と、国への責任と、世界への責任を認識することが必要です。嫌々、不承不承に責務を担うのではなく、難しい仕事に全身全霊を尽くすことほど、心が充実し、人格を作り上げてくれるものはないのだとしっかり認識した上で、進んで喜んで責任を受け入れることが,今必要なのです。」
 
アメリカ建国の精神を持ち出されると、これにはグラリとやられる。そして、これは完璧にアメリカの人々を感動させるだろう。かく言う自分もアメリカ建国精神が大好きなのだ(建国期のアメリカを描いたメル・ギブソンの“パトリオット”は自分の好きな映画です)。おそらくこれは自分の前世が建国期の米国人であったことと関係しているのだが(自分の前世は南北戦争時代を生きた南軍の少佐です。もちろんこれは自分が酔った時の得意のジョークですが)。恐らく、人間がとてつもない力強さをもって何かに邁進出来る時というのは、強い志を心に抱いてその実現に努力している時だろうと思う。特にその志が宗教的なものであれば、なおさらであろう。今まであまり気づかなかったが、やはりアメリカという国はキリスト教を基盤としているのだ。オバマ大統領の演説の最後は、「ありがとう。神の祝福がありますように。そして神がアメリカ合衆国を祝福くださいますように。」で締めくくられるところに見られるように。
 
オバマ大統領の演説を聴いていて、アメリカ建国も宗教的なエネルギーを原動力としていた事に気づかされた。そもそもアメリカを建国した人たちは移民であり、かれらは敬虔なピューリタンやクエーカー教徒だったから、質素、倹約、節制、誠実、勤勉、というような言葉で表現されるような高い道徳を身につけた人たちであったろう。そして本国イギリスでは彼らの宗教的価値観が認められなかったからこそ、アメリカに彼らの信じる価値観に基づく自由と平等の理想国家を建設しようとしたのだ。人は皆平等で、才能があれば誰でも頭角を表す事が出来る社会を。隣人を愛し、隣人に奉仕することを尊ぶ社会を。何もないところから国家を建設するのは大変に困難な作業であり、宗教的な心の支えが無くてはなし得なかった事が、ある程度年齢を重ねた今の自分には理解出来る。アメリカは人間が神に誓いを立てて、神の祝福を信じて建国したキリスト教の国家なのだ。建国の理念には、人間以上のものに対する敬いと、人間として果たさなければならない責任や使命感が熱く込められているように思う。 
 
しかし、ここに来て現代のアメリカ人は、祖先の敬虔な精神を忘れ、いささか違った方向に向かっていたようだ。その結果、大変な経済危機を招き、同時に全世界を巻き込んでいる。そのよって来る原因は何だったのだろう。それはオバマ大統領が指摘してみせた通り、それは建国の理念と直接関係するのだが、神の祝福のもとに人として生を受けた以上、人として果たさなければならない勤めがある事の認識が希薄になっていたことに由来するのだ。額に汗して働いた労働の対価としての報酬でなく、金融工学を駆使してお金にお金を投資し、巨額の利益を生み出す実体のない経済システムを発展させた現代のアメリカ人は拝金主義といわざるを得ない。自分はキリスト教徒ではないが、これはキリスト教の信じる価値観にはそぐわないのではないでしょうか。そもそも、一握りの超富裕層と大多数の貧困層しか存在しない社会というのは、どう考えても不平等であり、建国の理念が希薄化している兆候と思う。もっと正確にいえば、なぜアメリカを建国する必要があったかという国の礎を築いた祖先のスピリットの部分を忘れた結果だと思う。アメリカは建国以来、独立宣言に忠実に突き進んで来たかもしれない。独立宣言は「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げたとても重い意味のある宣言である。しかし、その権利は、建国時代の人たちがそうであったように、高い道徳をふまえた上で求められるべきであることを忘れているかのように見える。そうなのだ、現代のアメリカに欠けているのはこの道徳心でしょう。さしたる苦労をせずに祖先の遺産を引き継ぐうちに、精神力や道徳の衰退を招くことは、洋の東西を問わぬ真実かも知れない。
 
そして今回、オバマ新大統領が強調した事は、アメリカを築いた原点のスピリットをもう一度思い起こす事であるが、これはとても時宜を得た重要な指摘だと思う。自分はアメリカ人ではないが感動した。建国時代のアメリカ人(というか移民)は極めて強い宗教心を持っていたはずであり、極めて高い道徳心を持っていたはずなのである。自分が尊重されたいなら、隣人も尊重しなければならないと考えたはずだし、自分の能力は社会に奉仕するために神から授かったと考えていたに違いないのだ。
 
ところで、オバマ大統領の演説を聴いて、我が国にもかつて同様の事を唱えた賢人がいた事を思い出した。福沢諭吉である。最近、彼の「学問のすゝめ」を読んだのだが、諭吉の国づくりのビジョンは、「この国を自分たちの手で支えていくのだ」という思いを一人一人の国民が持った、共和制のような国をつくることだったようだ。そのような国が実際に世界に存在することを知った諭吉は(かれはトマス・ジェファソンのアメリカ独立宣言の全文を和訳しています)、我が国も欧米の近代思想を導入しなければ、今のままでは日本は欧米列強に植民地化されてしまうという危機感を強く持ったようだ。
 
  「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(アメリカ独立宣言からの引用らしい)という冒頭の一文しか知らなかった「学問のすすめ」をこの度、初めて最初から最後まで眼を通した。本当に素晴らしいことが書かれている。「学問のすゝめ」は我が国の近代化の原動力となったが、現代においても何ら色あせることなく有益である。全十七編からなるこの古典を要約すると、能力があっても世に出ることが許されない封建制度は不合理であり、新しい世の中に変えなければならない。新しい世の中とは、身分の違いがなく平等な世の中であり、いたずらに権力に平伏することは卑屈で恥じるべき行為である。我々国民が国の主体であるから、我々は国を頼るのではなく、われわれが国を支えなければならない。そして、国を頼らないのなら,何を頼るのか。それが学問である。学問といっても、単に知識を講釈するだけの学問は無益で、地に足をつけて生活するのに役立つ実学こそが有益なのである。実学こそが我々が頼れるものであり、我々を発展させる原動力となるものである。そして学問をすることこそが、我々に生活力を与えるだけでなく、我々を徳の高い人間に成長させ、国を頼らなくても独立して生活することが出来る自立した人間に成長させるのである、といっている。要は学問をすることが身を助け、国家を支えるのである、だから学問をしなければならない、ということだろう。
 
オバマ大統領と福沢諭吉、二人の愛国者に共通の思想とは、「国を支えて国を頼らず」という考え方である。国民一人一人が「独立自尊」を考えれば、個人の集合体である国家も必然的に自立した品格のあるものになるという考え方だ。なぜ、自分がこの二人の言動に着目するのか、というとそれは自分の今の心情にピッタリと当てはまるからだ。彼らの言動が身にしみて、本当に良く分かるのである。彼らの思想が、今の自分の心を打つのである。もっと若い時代にこの真実に気づけば良かったという痛恨の思いが自分にはある。「独立自尊」「自立自助」の精神の価値について、あまりに無頓着であったことが今の自分の最大の反省点である。
 
現代の若者にみられるプータローやフリーター、しいては派遣社員という選択肢はすべて人生の目的意識の希薄さの結果であり、そのような立場にあるために被る不都合はすべて自己責任である!自分が人生の選択肢を見いだせないことを社会のせいにする甘えである。社会の大人に良い規範がないなら、自らが規範となろうとする気概をもてば良い。本国イギリスに失望したからといってくじけず、新大陸での理想国家の建設を志したように、自らが理想の人間像を模索すればよいのだ。すべての結果には原因があり、そしてその原因は自己が作り出したものなのだ。「独立自尊」の精神とは、自己の身上に起こるいっさいのことは自己の行いが招いた結果であり、他者の責任ではないとする心構えのことだと自分は解釈している。すなわち自らの運命は自らが創るという気概なのだ。まさにアメリカ建国の精神であり、我が国を封建社会から近代国家へと導いた精神であろう。アメリカはキリスト教をふまえて建国された国家だと記したが、キリスト教においては、「運命」という概念は、「困難な克服すべき対象」という意味合いでは使われても、決して生前から定められた避ける事のできない定め、即ち運命論の運命という意味ではないと思う。たとえば、何歳の時に結婚し、何歳で事業に成功し、何歳で病気や事故などの不運に見舞われ、何歳で死亡する、などというように、あらかじめ神が計画した「宿命」にしたがってわれわれは生かされている、という考えではない。キリスト教では「天は自ら助くるものを助く」というではないですか。運命とは創るものなのだ。少なくとも建国時代のアメリカ人は、人生は自ら信じた理想を実現するための舞台であり、神との対話のもとで、キリスト教の教えに忠実に、自らの運命を自らが切り拓く生き方をこそよしとし、そのような人間を神は祝福すると考えていたことだろう。
 
今、日本もアメリカも、全世界と共に同時不況の真只中にいるが、この危機を乗り越える原動力の根本は、オバマ大統領や福沢諭吉の唱える「国を支えて国に頼らず」という自主独立の精神ではないでしょうか。現在のアメリカの危機を乗り越える手だてはアメリカにだけ有効なのではない。それは国境を超えて、時代を超えて、普遍的な価値を持ち、今の我が国の危機に対してもやはり有効なのだ。アメリカの開拓者魂が今日のアメリカの繁栄を導いたように、そして、明治初期の福沢諭吉の説いた独立自尊の精神が日本を植民地化から回避させ近代国家へ導いたように、国家の存亡を救うのは常に国民一人一人の自覚にかかっているのだ。「国を支えて、国を頼らず」という自覚こそが、この国を救う。個人の人生の存亡を救うのも、同じくこの心構えだ。「独立自尊」「自立自助」の精神は経済危機だけではなく、人生の艱難辛苦を乗り越えるための普遍的な真理ではないかという気がする。人を頼らないのだから、必要なのは勇気だ。勇気を出すには心の支えがいる。心の支えは、ある人にとっては宗教であり、ある人にとっては道徳であり、ある人にとっては哲学であり、時代を超えて普遍的に価値を持つものであればそれでよい。それは学問をする事から得られる。学問というといかめしいから、勉強すると言い換えても良い。勉強する事で、自分が信じられる普遍的価値を見つけられる。必要なのはそのような普遍的価値をもつものに自己の行動の規範を求めること。そうしてこそ、個人が責任と品格を持った人格を身につけ、そのような構成員を持った国家は品格のある国家となる。現在の危機が過ぎ去った後には、このような時代が訪れる事を信じたい。
 
現在の日本の危機は、単にアメリカ発の経済危機が日本に波及しただけのことではない。危機の本質は不況にあるのではなく、不況に右往左往してしまう精神力の劣化や、自分が生き延びるためなら何でもありの振る舞いに見られる道徳心の低下こそがこの国の危機の本質なのだ。その背景にはアメリカ同様、苦労の末に自ら勝ち取ったものでなく、祖先の遺産を安易に引き継ぐ過程で、精神の劣化を来している現実がある。したがって、この国が活力を取り戻すためには、アメリカの指導者が建国精神への立ち返りを呼びかけたように、我が国の伝統的良心を呼び起こす国民的精神運動が必要だ。そのヒントが福沢諭吉である。
 
  独立自尊の精神は、個人を救い、国を救い、この世界を救うと信じる。この激動の時代に生を受けたことに喜びと感謝を捧げ、この稿を終わります。本当に我々はドラマ仕立てのような激動の時代を生きているのですね。なんだかワクワクしますね。
 
2009年2月22日
 
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