本日は、高松市歯科医師会法人化40周年記念シンポジウムに参加しました。

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本日は、高松市歯科医師会法人化40周年記念として開催されたシンポジウム「子・孫の世代を健口から健幸へ」に参加しました。3人の著名な先生方が講師としてご登壇されました。お一人目は東京都健康長寿センター研究所の枝広あや子先生(歯科医師)で、「認知症発症をみすえた口腔管理のエッセンス」と題されたご講演をされました。講演の中で、認知症の方は嚥下機能が低下しているため、カステラを口にいれてもぐもぐし続けても、いつまでたっても口蓋にへばりついたままであることを示す透視カメラの動画が紹介されていたのは印象的でした。認知症になれば口腔機能としての摂食嚥下機能が障害されますが、逆に口腔機能を活発に使い続ければ、認知症を予防出来ることが示されたことになり、今後の歯科医師の社会に果たす役割が示唆されました。

 

 お二人目は、糖尿病専門内科医の西田 亙(わたる)先生で、「歯科が誇る連続性こそが次世代を糖尿病から守る~我が事から我が子のこと、我が孫のこと~」と題した講演をされました。冒頭で、認知症の話題に触れ、久山町のリサーチに基づくデータから60歳以上の高齢者が生涯のうちに認知症になる確率は55%という驚愕の数字を紹介され、認知症はもはや我が国の国難である、というリサーチの報告者のコメントを紹介されていたのが印象的でした。この発症率を下げることに歯科医師は貢献できることを自分は知っているわけだから、もっともっと歯科医師の認知症予防における貢献力が社会に知れ渡るように頑張らなくちゃ、という意欲がめらめら湧き上がってきました。西田先生のメッセージのエッセンスはタイトル通りで、医科では病気の人を治すことしか考えていないが、歯科は病気の予備軍や、まだ健康な人が病気にならないように予防の知識を授けることが出来る素晴らしい職域であることを伝えられていました。西田先生のエネルギーの源泉は、社会の人々を病気にさせないように導く仕事の尊さに気付かれ、それを実践したいという大きな意欲のうちにあると思いました。

 三人目のモンゴル健康科学大学客員教授をされている岡崎好秀先生(歯科医師)のお話しの中で印象的だったのは、食育とは何を食べるべきかという栄養素の話よりも、どのように食べるかというところに力点を置いた指導の方が意味がある、という点でした。そこで、思い当たるのは、自分の早食い。昼休みにメールチェックしながら、5分でお弁当を流し込むのは絶対あらためねば、とおもいました。血糖値も上がるし、唾液アミラーゼの分泌も不十分になるし、決して良くないですから。

 以上、我々歯科医師の職域は、国民の健康に貢献できる、やりがいのある仕事で溢れていることを、あらためて感じて帰ってきました。

 

 

 

 

 

ウエルカム・ウエルカム(welcome・well咬む)~咬む力で人々を幸せに~ 110501

1. まえおき

 いうまでもなく命は大切である。命がないと何もできないわけだから当り前である。たとえば、先日の昼食は佐賀県にある眺めの良い素敵なレストランで歯科医師会の先生方と佐賀牛ステーキを頂いたわけだが、本当においしかった。しばし幸福感に浸れたのも命があるからだ。
こんなに美味しいものを頂くと、また次の機会に家族や大切な友人とこの感動体験を共有したいと思うし、そのために明日からまた仕事を頑張らなくちゃ、とも思う。あるいは患者さんにもよく咬めるようにいい治療をしてさしあげて食事を楽しんでもらえるようになれば、患者さんも自分もともにハッピーになれるわけで、だからこそさらに歯科医としての技術を磨かなくちゃ、などと思う。こういった考えを巡らすことが出来るのも生きていればこそだが、さらに言えばこういったふうにいろいろ考えられ、行動の意欲が湧いてくるからこそ生きている意味があると言える。
このことはいいかえれば、単に生きているだけでは駄目で、喜んだり、悲しんだり、感動したり、人を好きになったり、共感したり、何かの目標を立てて頑張ったり、それが達成出来た際には生きていてよかった、などと感じることが「人間らしく」生きることなのだ。そうすることが出来てこそ生きる意味がある、ということになる。「人間らしく」生きるということは、いろいろなことを感じたり、思考したりすることが出来る脳が健全に機能することで可能となるのだから、生きていることが尊いということは、脳が健常であることが尊いということである。要するに脳が健全に働いてこそ生きていることが尊いのであって、脳が健全に働かなければ生きている意味が大きく損なわれてしまうのだ。だから、命が大切、ということは脳が大切、ということと同じである。したがって、脳の働き方や、その働きを良くすること、さらにはその健全な働きを長く守ることについてしっかり考えることはとても大切なことだと気づかされる。
というわけで、今回のテーマは脳である。

2. 前頭前野が「人間らしさ」のすべて

「人間らしく」生きるということは「脳を健全に働かせる」ということと同じと書いたが、正確に言うと脳の中でも大脳皮質の前頭葉という部分が創造や思考を行う部分だそうだから、人間らしく生きるとは「前頭葉がうまく働いている」ということなのだ。さらにいうと、前頭葉の中でも特に前方に位置する部分を前頭前野(または前頭連合野)というのだが、前頭前野の機能こそが「人間らしさ」の根源らしい。「人間らしさ」のすべてを形成しているのが前頭前野ということである。

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ここで人間の生活における前頭前野の大切さについて、セロトニン研究の第一人者である有田秀穂氏の最近の著書「脳からストレスを消す技術」(サンマーク出版)の一部を紹介しておこう。有田秀穂氏によると、人間らしさをもたらす前頭前野には「共感」、「学習」、「仕事」の三つの働きがあり、それぞれ前頭前野の真ん中にある「共感脳」、上方の「学習脳」、外側の「仕事脳」がこれらの役割を分担しているという。「共感脳」とは相手の感情を推測する脳である。「学習脳」とはいろいろ努力する脳であり、「仕事脳」とは一瞬にしていろいろの情報を判断し、経験に照らし合わせて最善の行動を選択する脳である。

これらのどの領域の機能も人間として欠かせない心の働きだ。そして、それぞれの脳神経は異なる神経伝達物質を介して働いており、学習脳はドーパミン神経、仕事脳はノルアドレナリン神経、そして共感脳はセロトニン神経である。前記三つの神経の働きの現れが人の心であるが、人の心が悲しんだり、喜んだり、と移ろうのもこれらの三つの働きのバランスがその都度違っていることに他ならないという。

 人間らしさの根源が前頭前野によってもたらされると書いたが、上記の前頭前野の三つの働きのうち、「共感」こそ人間が人間たる最重要な脳の働きであると著者はいう。 「共感脳」とは、相手の表情や仕草から相手が、今、喜んでいる、悲しんでいる、自分に好意を持っている、嫌っている、と判断する脳である。 この働きが無くなると人間は人とのコミュニケーションが全くできなくなり、社会生活が営めなくなる。 現代人に増えてきているプチうつも、ネット社会の出現でメールやツイッター、フェイスブックなどによる電子文字のみを介した交流を常態とすることから相手の感じている気持ちを思いはかる能力が低下して生身の人間対人間の交流を苦手とする様になった結果、バーチャルなコミュニケーション世界に閉じこもり人々の「共感脳」の働きが弱ってきているせいだ、と著者は言う。 というのは、人間のコミュニケーションは言語を介するものよりも、声や表情、態度など言語以外の手段を介するノンバーバルコミュニケ―ションの方がはるかに多いと言われているからだ。だから個性の感じられない電子文字のみを介したコミュニケーションでは共感脳が育たない。「共感脳」をうまく働かせることによりセロトニンの働きは高められるのだが、「共感脳」を働かすことがなければセロトニンの働きが低下してしまうのだ。うつはセロトニンの働きが低下している状態なのである。

このように前頭前野は人間にとってもっとも重要な脳領域なのだが、中でも「共感脳」が残り二つの「学習脳」と「仕事脳」の働きをコントロールする主導的な役割を果たしていることがわかっている。「共感脳」は前頭前野のコンダクターなのである。強いストレスが脳に加わると、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経は過緊張に陥り、時に暴走することがある。たとえばドーパミン神経が過剰に興奮し続けると例えばアルコール依存症のようになにかの「依存症」という病気になるし、ノルアドレナリンの異常興奮が続けばうつ病を始め、パニック障害や、強迫神経症、対人恐怖症、等の様々な精神疾患を招いてしまうのだ。

ところが、セロトニン神経は暴走することがなく、しかも前二者が暴走しないようにコントロール出来るという。一定量のセロトニンが規則正しく出ることによって、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経が過剰に興奮することを抑え、脳全体のバランスを整え、「平常心」を保つ役割をしているそうなのである。このようにセロトニン神経は前頭前野の他のドーパミン神経やノルアドレナリン神経の働きをコーディネイトしてストレスをうまくマネジメントしているのだ。

要するに、人間にとって最も大切な「前頭前野」は、セロトニン神経のコントロール下で上手く働けるのだ。「共感脳」を起源とする行動エネルギー、すなわち人のために役立とう、働こうという行動意欲が、「仕事脳」や「学習脳」のパワーをマックスまで引き出し、人間は頑張ることが出来るのである。前頭前野が健全に機能してこそ、人の悲しみや喜びを理解し、人のために頑張る喜びを知り、人を救う行為によって自らも救われることを悟りつつこの世に存在する喜びも感じることが出来る、というように人間が人間らしく、生き生きと生きられるわけである。

3. 咬むことで前頭前野を鍛えられることがわかってきた

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ところで、このセロトニン神経について最近とても興味深い事実がわかってきた。セロトニン神経はリズム運動によって鍛えられるというのである。太鼓をたたくことでも、ウォーキングでもリズムが出る行動なら何でもよいそうだが、大変興味深いことに食べ物を咬む咀嚼(そしゃく)のリズムもセロトニン神経を鍛えることに大いに役立つというのだ。しっかり咬むことで、セロトニン神経の共感脳が鍛えられ、結果的に前頭前野全体の機能がバランスよくパワーアップされ、頭がクリアになり、元気がみなぎり、心は安定し、ストレスに強くなる、などいいことずくめの状態になるという。

また最近、歯科の研究領域からも咀嚼が前頭前野の機能を高めるという重要な事実が報告されている。神奈川歯科大学教授  「咀嚼と脳の研究所」所長 小野塚 實教授は、氏の著書「咬む力で脳を守る」(健康と良い友達社)のなかで、機能的磁気共鳴画像(fMRI)を用いて咀嚼運動が脳に及ぼす影響をリサーチした結果について述べている。同教授によれば、しっかり咬むことにより前頭前野が著明に活性化されるという。そして、残存歯数と認知症との関連性を指摘し、歯の数が少なくなるほど認知症になる率が高まることを指摘している。そして、よく咬み、前頭前野を活性化させることで認知症を予防できると述べている。また、咬むことにより、前頭前野だけでなく、海馬やその他のすべての連合野も活性化されることから、高齢者の記憶力の増強をはじめとする脳全体の活性が高められることを報告している。咬めるようになることで高齢者は元気になるのだ。

 
4. 咬めるようにすることは、人々を幸せにすること

これらの情報は歯科医にとっては素晴らしい報告だ。われわれの仕事は単に悪い歯を治して物を咬み易くしているだけではない。咀嚼機能の改善を通じて脳機能を健康にする仕事に携わっているのだ。そう考えると、この仕事の意味は大きいし、やりがいを感じる。歯科医の仕事はただ歯をきれいに並べて見せるだけでは不十分だ。よく咬めるようにしないといけない。脳に刺激がしっかりと伝わるように、キチンと歯と歯が機能的に咬み合うようにしないといけないのだ。歯が無くならないように予防を重視してしっかりケアをし、歯周病になっている歯は、残せる可能性があればしっかり歯周病の治療をして残し、残せなければ抜歯して、義歯なり、インプラントでしっかりと咬み合わせを回復させて患者さんの脳の機能を守って行く。そういう価値ある仕事が歯科の仕事だ。

国民のすべてがよく咬めるようになって健康になれば世の中はものすごくよくなるだろう。たとえば、高齢者も現役で勤労生活を継続できるから生産人口の減少に歯止めをかけられる。したがって、BRICsの後塵を拝することなく、グローバルマーケットに日本企業は参戦し続けられるので外需が拡大し日本経済は上向く。また、医療費が国家財政を圧迫している現状を改善でき、財政が健全化する。給与収入を得られる高齢者も人生を謳歌するので良い消費者となり、元気な高齢者向けのサービスを展開する産業が活況を呈し内需も拡大する。企業活動に参加しない健康な高齢者は非営利活動法人の活動に参加するので、人と人との絆の感じられる暖かい社会が到来する。そこいら中にボランティアの高齢者が溢れかえる社会だ。高齢者が頑張ってくれるから社会にゆとりが生まれ、女性は企業に在籍しながら育児休暇を取れるので出生率が向上し、人口が増加し始める。国内消費の増加が好況をもたらし、企業は過剰な経費削減を強いられなくなり若年世代の雇用が増える。やがて若年者生産人口も必要量に達し、社会は各世代のバランスのとれた適正な生産人口構成比を取り戻す。 その時点で永年勤労生活者として頑張った高齢者は退職することも可能となり、蓄えた給与と年金で安心して非営利活動に専念できるようになる。企業活動ではなく、非営利活動を通じて社会に貢献する新たな人生を迎えるのである。そして社会はこのような非営利活動を今以上に必要とする時代が来るだろう。人と人との絆を深めるにはフェイス・トゥ・フェイスの接触が不可欠だが、自由な時間の多い健康な高齢者こそ最適任だ。社会のあらゆる分野の人対人の接触が求められる機会に参入し、彼らの長年培ってきた経験智を若年世代に伝承することは、高齢世代にも、若年世代にも、社会全体にも益するのである。決して隠居して何もしない、などという高齢者はいなくなるのだ。介護施設に入ることが高齢者の幸福ではない。すべての高齢者が健康でいられて、なんらかのかたちで社会の現場とかかわり続けられる社会、それが高齢者にとって生きがいのある幸福な社会だろう。

よく咬める国民が増えるとは、こういう素敵な社会が到来することだ。
 

5. エピローグ~歯科医の仕事は素晴らしい~

 “情報革命で人々を幸せに”と謳うソフトバンク社長 孫正義氏のいうように、情報革命で人々は確かに幸せになるだろう。しかし、ネット社会、コンピューターで制御された社会、すべての分野でロボットが台頭する社会においてはストレスマネジメントがより一層重要になることは間違いない。そのような社会で、リズム運動である咀嚼の機能を健全に保つことによって国民の脳の健康を守ることが出来るということはなんという光明であろう。そう思う時、歯科医療は本当に尊い価値ある仕事に思える。本当に我々にとってよく「咬める」ことは大歓迎なのだ。まさに“ウエルカム・ウエルカム”(welcome・well咬む)である。だから、この仕事に邁進しよう!歯科医として働く目的はたったひとつ。“咬む力で人々を幸せに”することなのだ。

 2011年5月1日 連休最中の自宅にて

歯科界の新潮流  ~さあ、ワクワクする時代がやってくるぞ!~ 110103

1. 歯科は不況産業の代名詞?

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 リーマンショック以降、我が国の多くの業界は不況に喘いでいるが、歯科界もまた同様である。 その惨状については、一部の業界紙の報道によれば、 「歯科診療所は全国で6万8000件、コンビニエンスストアの店舗数より多いにもかかわらず、 患者数は増えず、保険医療費は伸びないことなどから経営環境の悪化は著しい。 5人に1人が年収200万円以下でワーキングプアと呼ばれる層に含まれ、東京都内では実に1日1件のペースで歯科医が廃業している」と、 相当にショッキングな内容となっている(『ZAITEN』2009年6月号)。 歯科医がワーキングプアかどうかは分からないが、かつて一般には開業歯科医の生活はリッチだというイメージがあっただけに、 厚生労働省により実施され2009年6月に公表された「医療経済実態調査」の結果にマスコミが過敏に反応したものと思わる。

はたして歯科は本当に、不況産業の代名詞なのだろうか? たしかに、日本歯科医師会も「歯科医院の経営努力は限界」とのコメントを出しているし、 世間の歯科医師に対する社会的イメージは下落傾向にあることは否めない。 少なくとも、この記事を読む若年層からは魅力のない業界として捉えられ、「歯医者にならない方がいいな」と考えるだろう。 実際、2009年度大学入試では私立歯科大学・歯学部17校のうち6割が定員割れを起こした。 歯科技工士の置かれた状況は歯科医師以上に深刻である。 日本歯科技工士会の調査によれば、20代の歯科技工士の8割が歯科技工士の職に就かず、2009年度の歯科技工学校の入学者は、 2008年度の充足率62%をも下回っていた。このような状況下で歯科技工士の高齢化が進んだ場合、高齢化社会の下で需要が高まる補綴、 とりわけ義歯の需要に応じきれない事態が危惧される。

 こういった事態は将来の我が国の国民に極めて深刻な不利益をもたらしかねない。 新しい人材が流入してこない業界が生き残ることはあり得ないが、歯科界は本当にこのまま衰退してしまうのだろうか? 私は断じてそうならないと思う。 歯科医療の健康にもたらす価値の大きさを信じて頑張っている私としては、それでもなお歯科医療は魅力ある仕事で、 将来有望な業界であると声を大にして訴えたい。 そしてそれはカラ元気ではなく、歯科界が未来の成長産業である根拠を具体的に提示しなければならない。 そこで、今回のテーマは「歯科界の新潮流」と題して、歯科界の新しい潮流、特に明るい未来をもたらす可能性のある動きについて考えたい。
 

2. 歯科は成長産業に変化する!そのわけは—–

 私は、歯科業界は近い将来、おおいに成長すると考えている。 その根拠は、「価値のあるものは絶対に滅びない」という信念だ。 これは職務に情熱を傾けている歯科医の共通の信条だろう。 しかし、個人的思い入れのレベルではなく、客観的事実として歯科産業が成長産業へと転換できる可能性を示唆する根拠はすでに十分あるのだ。

 その根拠の一つ目として、最近の脳科学の進歩により、 咀嚼(そしゃく)が思っていた以上に脳機能に大きく影響していることがわかってきた事実を挙げたい。 具体的に言うと、「咬む力」が記憶力や認知力を向上させる有効な手段だと考えられることだ。 さらに「咬む力」は「脳を守る」だけでなく「ストレスを解消する」ことにもつながるらしいのだ。

 神奈川歯科大学教授 神奈川歯科大学大学院歯学研究科長 小野塚 實教授のfMRIによる実験データを踏まえた脳研究の報告によると、 咬むことにより、口や顎などの領域からの情報が大脳の広範囲に入力され、 さらに大脳辺縁系(へんえんけい)の海馬(かいば)や扁桃体(へんとうたい)、 前頭前野(ぜんとうぜんや)に変化を及ぼすことが明らかとなっている。具体的に言うと、 高齢者の認知症は、海馬(かいば)や扁桃体(へんとうたい)、前頭前野(ぜんとうぜんや)など、 人間にとって最も重要な脳の高次神経回路の機能障害であることがわかってきている。そして、こういった重要な回路が 、咬むことによって活性化されるということが明らかになってきている。つまり、よく咬むと認知症が予防できる、ということだ。 このことは非常に重要で、健康の基本は精神活動の旺盛さを維持することであるが、 咀嚼がその一翼を担っている事実が国民の意識レベルに広く浸透すれば、歯科の受診率は今以上に向上することは間違いない。

 咀嚼機能を損なう原因として、従来から虫歯と歯周病が歯科の二大疾患としてクローズアップされてきた。 しかし、上記の二大疾患の制圧が依然として極めて重要な課題であることは間違いないが、 それが従来から長い間歯科界のスローガンとして使われてきたためにいささか色あせて見える感も否めない。 今後は国民の関心をひく新たな歯科的関心、例えば咬み合わせの異常がもたらす健康障害なども盛り込み、 細菌との闘いだけではなく歯の咬み合わせのあり様や咬むことそのものの価値の高さを強くアピールする、 などの新キャンペーンが必要ではないだろうか。

 二つ目の根拠として、日本経済の復興に歯科が貢献できることである。 本年10月の内閣府発表によれば日本経済は大企業を主体に復調の兆しを見せ始めている。 日本経済は目下、2009年3月前後を底として、中国など新興国の景気回復を追い風に輸出産業が牽引する形で景気が回復基調にある。 GDP(国内総生産)はじめ鉱工業生産指数など各種景気指標を眺めても、直近の景気のピークである2007年度の水準の9割程度は回復している。 したがって、日本経済が回復基調にあるならば、基本的には歯科界も間もなく最悪期を脱し需要が戻って来ると思われる。

 しかし、実際の話はそれほど単純ではない。 歯科医療経済を行政レベルで見るとまだまだ先行き暗いのだ。 政府の12月24の閣議で決定された予算案では、歳入の半分以上を国債44兆円の発行で宛てることになっており、 財源なき歳出拡大傾向が止まらない。この調子では歳出の多くを占める社会保障費のうち、 歯科医療費に回す財源が今以上に大幅に増えることはないだろう。従って歯科界の活性化に公的サービスが一翼を担ってくれることは期待薄だ。 だから歯科界の苦境の解消はあくまで歯科界自身の自助努力によらなければならないことになる。そして、それは可能だ。 公的財源に多く依存する限り、限られたパイを同業者が奪い合う構図から逃れられない。従って歯科のマーケットは自助努力で拡大する気構えが必要だ。

 この点は民間企業の経営努力がおおいに参考になる。 たとえば、今、日本企業はその景気浮揚策の根幹をなす戦略として、 地球環境を守るためのグローバルな戦いに参画することで日本企業の価値を世界に示し、 他国企業をリードしようとしている。実際には原子力発電、太陽光発電、CO2封じ込め技術、省エネ車、排煙脱硫・脱硝技術等々、 で日本は最先端の技術を開発して来たが、東欧、中国、インドなどがこれを必要としているので正に好機到来である。

 つまり自社の特性を自覚し、その能力を必要とされるマーケットに売り込みに行くのである。そしてこの営みは個々の企業が単独に交渉に当たるのではなく、ハードとソフトを両方含む形のいわば関連企業が企業連合を形成した形でジャパンクオリティーをマーケットにアピールしているのである。

 歯科界は他業界のこの姿勢を参考にすべきである。歯科の強みは一番目の根拠でも示したように、一般の国民が考えている以上に健康に寄与する力が大きいことである。これまでのように虫歯や歯周病の撲滅だけをスローガンにしていたのではわれわれの活動対象が口の中だけに留まってしまう。われわれが提供しているサービスは全身の健康の維持増進を目指していることを強く国民にアピールすべきである。歯科的健康を維持することの有益性に関する情報を絶え間なく国民に提供していく努力が必要である。そしてこの情報を正確に社会に伝達する力は歯科医療関係者をおいて他にない。プロフェッショナルだからこそ価値ある情報を選択し提供できるのである。

 こういったアクティビティーの持続は必ず「歯科の時代」の到来につながるのだ。それは、歯科的健康を維持増進することが企業の利益であり、国家利益となることをそれぞれの指導者層が気づくからである。たとえば、米ゼネラル・エレクトリック(GE)や東芝などの世界の電機大手は現在、ヘルスケア(医療・健康)事業を強化している。CTやMRIなどの先進国向けの先端医療機器や新興国向けの普及機を開発する構想を発表している。これは健康産業がグローバルビジネスとして有望であることを企業が見抜いているからであるが、このような大資本が直接に歯科のマーケットに参入して来ずとも構わない。「健康」がビジネスとして成長の核になるという認識を社会が共有することに意味がある。それは健康の価値が社会において最上級のものとして名実ともに定着することである。このことは社会にとっても個人にとっても喜ばしい。

 また別の観点からも歯科が日本経済の復活に貢献できる可能性を述べる。2011年元旦の日本経済新聞の記事によれば、「1955年に8927万人だった人口は04年に1億2777万人まで増加したが、これをピークに人口は減少に向かう。国立社会保障・人工問題研究所の予測によると、46年には1億人を割り込み、55年には8993万人にまで減る。—–単に人数が減るだけではない。退職した高齢者の比率が高まり,現役世代は減る。—50年前、日本は一人の高齢者(65歳以上)を10人超の生産年齢人口(15~64歳)で支えていた。それが現在は3人で1人、55年にはほぼ1人で1人を支えなければならない。人口構成の変化は国民負担増しとなってはねかえる。高齢化が進めば年金、医療、介護などにかかる費用が膨らみ、財政支出で賄う分が増えていくからだ」とある。

 このような高齢化社会に突入した日本が、グローバルマーケットで戦い、尚成長していく可能性はないのだろうか?私はあると思う。それは、高齢者は生産能力を失い介護の対象となることを前提としたこれまでのステレオタイプの概念を覆せばよい。高齢者といえども充分に働ける能力を保っている者は退役せず現役で生産の場に留まれる社会システムをつくればよいのだ。我が国が態勢を立て直し、リコンストラクションにより充分発展が持続可能な社会体制が再構築される日まで。

 その要は国民の健康を維持増進することである。そして咀嚼力の維持が健康に直結することを社会が100%理解できたら、歯科医療費ならびに歯科関連産業に十分な額が投資されるようになるのである。

この気運の勃興に政府の新成長戦略の一つである「ライフイノベーション」が後押しをしてくれることを願う。現在政府は、医療・介護を柱とした新たな産業育成策を打ち出している。成長戦略「ライフイノベーション」が直接的に歯科医療界に活況を呼び起こさずとも健康を発達向上させる事業を大きな成長産業と捉える目を国民が共有することは大いに利益がある。明治の国策「富国強兵」がおおいに国民の気力と行動力を喚起したように、われわれは今、明治以来の第三の国家的危機として現在の閉塞状況を「国民を健康に保つことこそ国運を拓く」というスローガンでもって打破しなくてはならない。そして国民をすべてPPK(ピンピンコロリ)に導くことが国策とならねばならない。このような気運の立役者として歯科医療者は行動を起こさなければならないだろう。歯科の力は確実に国民を健康長寿につなげられることを歯科医自身が最もよく知っているのだから。

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このように歯科界の中に医療経済における自助努力の目が芽生える時、歯科医療および歯科産業はおおいに成長出来ると思う。

 三つ目の根拠として、歯科の目覚ましい技術革新を挙げよう。昨年の秋、私はグラスゴーで開催された世界4大歯科学会であるEAO学術学会(EAO: Europian Association for Osseointegratin )に参加してきたが,会場において近未来の歯科医療の到来を目の当たりにし、息が詰まる思いがした。二日目の午前のセッションでは、CT画像診断・治療プランニング・インプラント手術・補綴物作成までのすべてのプロセスのコアの部分をコンピューターがサポートする近未来のデジタルデンティストリーが紹介された。具体的には、歯科診療室から印象剤や石膏が無くなり、歯を削った後の印象は光学スキャナーで口腔のデータを取り込み、石膏模型を起こす代わりにCAD/CAMでインゴットの金属やジルコニアを削りだしてクラウンやブリッジを造形する。インプラント手術においては、術前のCT画像診断に基づいてコンピューターが適正なインプラント埋入位置をガイドし、オペ前にコンピューターデータに基いて作製された補綴物をインプラント埋入と同時に上部に装着し、そしてそれは正確に適合するのだ。

 新時代の到来に心が躍った。このような魅力的なデンティストリーの技術面をサポートする存在は歯科医とパートナーシップを結ぶデンタルテクニシャンなのだ。このような近未来におけるデンティストリーの担い手は高度の専門知識を駆使するが故に、有能な人材を必要とする業種へと進化する。歯科医もデンタルテクニシャンもデンタルハイジニストも、口腔の健康に従事する職業は今以上のステータスを獲得するのである。国家の将来を支える基幹産業である医療業に従事するものは、宗教者や教育者、法曹関係者と同様に聖職者としてリスペクトされる日が必ず来る。当然、それに見合う実力を備えていることが前提であるが、このステータスが必要とする学識は従来の歯学カリキュラムにはなかった領域なので、そこにたどり着くには各人の必死の努力に負うことになるのだが。

 このような状況は歯科医療職が正に選ばれた人材によって担当出来る時代が到来してのことであるが、その時代はもうそこまで来ようとしている。選ばれた人材とは国家と国民の行く末を案じ、自己の職業を通じて我が国の浮揚に貢献しようとする志ある者のことである。

 この業界の未来は明るい。まもなく歯科によい時代が来る。然しそれは待っているだけでは来ない。われわれの価値を国民にアピールする必死の努力が必要だ。

 2011年1月3日

 

振り返ればやつがいる 100830

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1. 週末に昔のテレビドラマを見た。

 
8月7日の土曜の夜、自宅のカウチに陣取ってゆっくりとテレビを見た。その週はとても疲れていたので、気分転換にスターチャンネルで何か面白そうな映画を見たかったのだが、生憎、気に入った映画はかかっていなかった。それで仕方なく日本映画専門チャンネルに変えてみたのだが、意外にもそのチャンネルに思わず釘づけになってしまった。
 
 
それは、昔の人気テレビシリーズの“振り返れば奴がいる”(ふりかえればやつがいる)が夜9時から翌朝の5時過ぎまで、全12回が一挙放送されていたからだ。これは1993年1月13日~1993年3月24日まで、フジテレビ系で水曜日21:00~21:54に放送された、織田裕二と石黒 賢の二人が主演の当時の人気連続テレビドラマである。なぜ、僕がこれほど詳しく知っているかというと、毎週、楽しみにして必ず見ていたからなのだ(加えてWikipediaにも詳しく“振り返れば奴がいる”の番組クレジットが紹介されているので)。今でいえば、NHKの大河ドラマ“龍馬伝”の様なものだ(“龍馬伝”は毎週欠かさず見ている)。
 
そしてこの夜、僕は第一回から第三回までぶっ続けで見続け、深夜になったので途中で仮眠をとり、ふたたび明け方に起きだして、残り第十二回(最終回)までを見ることが出来た。そして僕はしばらく感動していた。翌朝はそのまま眠ることもなく、シャワーを浴び早朝から行動を開始していた。自分でも意外なほどに感動していたので、眠る気にならなかったのだ。
 
 
 
2. ドラマの大筋
 
ドラマの大筋はこうだ。天真楼(てんしんろう)病院を舞台に、性格の対照的な二人の医師の戦いが描かれる。織田裕二演じる司馬江太郎はまだ二十代後半の青年でありながら卓抜した手術の腕で名を知られる外科医だ。腕は超一流だが、不遜な態度をとり、医師としてのモラルは低い。たとえば、助かる可能性のある患者に対しては手術をするが、その可能性のない患者は“死なせてやれと”言い放ち、オペをせず見殺しにするのだ。司馬の興味は助かる患者に対して己の技量を試すことであり、救命できない患者は彼の興味の対象外なのである。特に無意味な延命を極度に嫌い、現代医学で救えない患者にはペタロルファン(鎮痛薬として有効だが本来は劇薬)を投与して安楽死させる。一方、石黒  賢演じる石川 玄はカンザス帰りのヒューマンな外科医だ。たとえ疲労の極地であろうとも、次々と運ばれてくる急患に対して献身的にオペをして救おうとする。助かる可能性があろうと、なかろうと、常に最善をつくして職責を果たそうとする典型的な善意の外科医なのだ。
そのような正義感の強い石川にとって、司馬の存在は医師として許せない。石川は司馬を天真楼(てんしんろう)病院から排除するべく戦いを挑むのだ。そして、ある事件で司馬の過失を証明してみせ、ついに勝利する。ある事件とは、手を尽くしたが患者を助けられないと判断した司馬が、それ以上無意味に延命することで植物状態となることを予想し、その患者の蘇生処置を放棄してしまったことだ。まだ生命徴候が残っている患者の心電計の電源をオフにし、死亡したことにしてしまったのだ。これを問題とした石川によって、司馬は懲罰委員会にかけられ、病院を辞めさせられることになる。しかし、最終回において、執念で司馬を追放した石川はスキルス胃癌に倒れる。そして、ほとんど成功する可能性がゼロに近い石川の胃癌手術を、なんとその石川により病院から追放されることが決定した宿敵の司馬が引き受け、成功させるのだ。(この辺りの司馬は本当に格好いい。自分を倒そうとしたライバルの難しい手術を引き受けることは、医師としてというより、人間として極めて優れており、感動的だ)。そして手術は成功したが、意外にも石川は術後性の肺梗塞で死亡する。司馬は落胆するが、最終回のエンディングでその司馬も意外な結末を迎えるのだ(司馬に失脚させられた別の医師から恨みを買い、帰宅途中の路上で刺される)。
 
 
 
3. なぜ、このドラマは自分を感動させるのか 
 
なぜ、このドラマは、製作後17年もたっているにも関わらず、僕をこれほど再び感動させるのだろう。先ず脚本が、あの三谷幸喜氏ということがある。これは、今回、クレジットを見て初めて知ったのだが、本作が彼のゴールデンタイムにおける初の連続ドラマであったらしい。三谷幸喜氏の作品は喜劇が多いが(僕は結構見ている)、本作はシリアスな医学ものだ。でも、人間の本質を見つめる目が鋭くなければ上質の笑いも生みだせないだろうから、要するに、感動を呼び起こすツボを心得ているから面白いストーリーが書けるのに違いない。
 
その感動のツボとは、一つには“熱いハート”。二つ目は“好対照”。確かに司馬も、石川も“熱い奴ら”なのだ。そして、性格は真反対で“好対照”である。僕ら凡人には、信念に基づいて行動する“熱いハート”を持った主人公に共感し、感動する習性がある。日常生活において、感動する瞬間はそう多くはないが、しかし、僕らは常に感動をしたがっていることは確かだ。だから、テレビドラマという仮想現実の中で、憧れを抱くことのできる人物に出会うと感動する。憧れの存在とは、そうなることを無意識に目指しているが、なかなか現実世界での達成は難しいような存在だ。僕らは熱いハートで生きたいと願っているが、現実には怠惰であったりするものだから、ドラマの中で“熱い人間”に出会うと感動する。僕にとっては、司馬も石川も理想であり、憧れの存在なのだ。性格は“好対照”だが、両方の生き方とも素敵に思ってしまう。つまり、ダブル主役として登場している正義のヒーロー石川も、悪のヒーロー司馬も、共にわれわれの分身といえるのかもしれない。自分の中に二人の要素、つまり善と悪の両方が存在するために、両者に共感をもてる。そういう人間心理を三谷幸喜氏は鋭く見抜き、視聴者の感動を呼ぶことに成功しているのだろう。
 
感動を誘う二番目の理由は、彼らの職業が外科医であること。僕は歯科医だが、医療人であるという点では、外科医とも共通するものがある。特に僕は口腔外科医としてのキャリアが長いので、なおさら共感を呼ぶのだ。石川は、患者なら誰でも平等に扱い、医師としての全能力を誰に対しても惜しみなく注ごうとする理想のヒューマニストだ。医師に必要なものは単に知識技能だけでなく、高い職業的モラル、しいては高い人格、と考えている。医師はとても素晴らしい人間であり、医療人であるならばみんなそのような存在を目指しているはずだ。現在の僕自身も、不肖の身ではあるが、それでも若い頃に比べると、少しでも人格を高めることが生きていく意味だと考えるようになってきている。歯科医として必要な知識技能と人間学の両方を学ばなくてはならないと考えている。だから石川的要素は自分の成長目標なのだ。
 
一方、司馬の人間性は粗削りである。無用の苦痛を与えることは悪と考えるので、救命の可能性のない患者には安楽死を与えたりする。その代わり、可能性がある限りはどこまでも全力で自分の能力を投入するのだ。特に、自分でなければ救えないと思われるような難しい手術を好んで引き受けたがる傾向にある。状況が困難であればあるほど、挑戦したがるのだ。彼が手術をする理由を聞かれて、“難しい手術だからやるのです”と答える場面があるが、彼の人柄をよく表している。自分の腕をのみ頼って生きていく生き方は、ある意味すがすがしく、共感を呼ぶのだ。たとえ考え方の合わない周囲の人間とぶつかり合ってでも、だ。人間としての成長度は石川の方がはるかに上級だといえ、人格者として尊敬できるが、司馬にもポリシーを貫く人間の魅力がある。司馬は、その考えは狭量であるが、信念に基づいて行動している。決して一般受けするキャラでないことは自覚しているが、自分が最高に生かされる場面をよくこころえているという意味で賢明な人間であり、自分でなければ出来ない困難な状況を意気に感じて飛び込んでいく。能力が飛び抜けているだけに、これはこれでカッコイイのだ。
かくして、僕には、司馬も石川も、共に憧れの対象となる。
 
 
 
4. そうだ、僕は司馬でいこう!
 
先にも書いたように、今の僕は石川的キャラクターと司馬的キャラクターの両方に魅かれる。言葉を変えれば共に自分のヒーローなのだ。しかしどちらかというと、自分の原点は司馬に近い。石川は、あくまでも努力目標だ。本来、備わっていないものを精神修養の結果として身につけていこうとする際の到達目標、という感じなのだ。一方、司馬は自分の感性に近い。最終回、司馬はライバルであった石川を救えなかった悔しさで、これから辞職する病院のピン付きIDカードをこぶしの中で握りつぶし、出血するシーンがある。これなのだ!司馬の本質は!誰にも真似が出来ない困難な課題に挑戦を挑むこと。それが達成された瞬間の恍惚感を味合うことが生きがい!そして、達成されなかった際の狂わんばかりの悔しさ!それこそがこの世に存在する理由と思える魂の底からこみ上げる情熱。これこそが司馬の本質であり、この部分において自分は、石川よりも共感出来るのだ。僕の原形質は司馬に似ている。なぜ苦しい道ばかりを歩くのだろう。時に自問自答することがあるが、それは理屈ではなく、自分の気性がそう出来ているからなのだ。人が出来ないことをやり遂げてみたい!それだけが僕の行動原理なのです。
 
 
満を持して成し遂げた手術が不成功に終わる時の悔しさは非常によく理解できる。僕も会心の出来と思ってやり終えた口腔の手術が、翌日の経過観察で創が開いているのを見たりすると、まだ自分の技量が不足だったかと、歯が折れそうになるくらい歯ぎしりして悔しがったりするのだ(ずいぶん司馬の外科手術とはスケールが違いますが)。自分もチャレンジケースでは逃げない。普通の歯科医ならトライしない難しいケースにチャレンジするタイプだ。司馬のような天才性は持ち合わせていないが、困難なケースであればある程挑戦したくなるマインドは確かにある。そういう意味では、司馬こそ自分の原点といえる。“難しい手術だからやるのです”という司馬の言動を借りるなら、“難しいケースだからやるのです”と僕も言いたい。どんなに困難な状況であっても、考えて、考えて、考え抜けば、何かいい方法があるはずだ。そのような状況の中に身を置いているときにこそ、歯科医としての生きがいを感じている自分を発見できる。そのような、自分本来の気性というものは変えようがなく、自分の持ち味として大切にしたい。そう、僕は司馬でいこう!
 
臨床家として必要な能力はいくつも挙げられる。それらは、患者さんとのコミュニケーション能力であったり、高い診断能力と最適な治療計画を立案する能力、歯科医院をマネジメントする能力、職業上の知識と技能を常にアップトゥデイトなものにバージョンアップする努力を持続できる能力、あるいは、人間学を極め人格を高める努力を継続できる能力であったりする。いずれも生涯にわたって持続しなければならない努力目標であるが、強いて自分がある程度、生来備わっている能力を上げるとすると、“あきらめない精神”を持続する能力かと思う。自分はしつこい。
 
ところで、“あきらめない精神”は歯科では大切だ。どんなに悲惨な口腔であっても、必ず快適に機能する口腔に回復させる事は可能なはずだ。司馬の生きる外科の世界であれば、疾患を治癒させる事が出来ず、死に至らせる事もあるかもしれない。司馬のようにクールに治療を放棄し、安楽死こそがベストという極限状況もあり得るかもしれない。しかし、慢性疾患を扱う歯科医療においては、悪性腫瘍を除いて、通常は患者を死に至らせるケースは稀である。このことは非常に幸いなのだが、歯科治療においては諦めねばならない状況はない。歯が無くなれば、義歯があり、インプラントがある。インプラントを植える骨が無くなれば顎堤形成術がある。その顎骨すら無くなれば、顎骨移植術がある。どのような最悪の状況でも、必ず打開策はあるのだ!あきらめてはいけない。
 
 
 
5. 歯科医療に必要なものは“感動”だ。
 
自分を突き動かす原動力は歯科医療の中で味わえる感動だ。困難な仕事を成し遂げた時の達成感は最高であり、この仕事をしていてよかったと思える。これほど面白い仕事はないです。そして、学ぶべきことが多く、まだまだ修行の道半ばゆえ、これからもまだまだ学んでいける、と思うと楽しくて仕方がない!そう、僕は歯科の勉強フェチなのです。
 
これほど楽しい職業につけたのは、自分が歯学部に入ることが出来、歯科医になれたからであるが、この幸福感の生じる原理は他の分野でも同じだろう。だから、他の道に進んでいたとしても、同じように幸福感を感じることはできたと思う。考えて、考えて、考え抜いた揚句に見つけた解が見事に成果を生んだ時、最高に幸せなのは、歯科衛生士でも、歯科技工士でも、塾の教師でも、証券マンでも、なんの職業においても、きっと同じに違いない。どれほど入れ込むかで、その対象から得られる幸福の度合いが決まる。大切なことは、自分も顧客も共に感動できるというような、感動のレベルで仕事をするということだ。
 
最近、ますます歯科の仕事が楽しくなってきている。口腔外科をやっている頃も結構楽しかったけれど、開業してから以後、ますます自分の仕事は楽しさを増している。それは歯科の仕事は、考える要素が多いからであり、精緻な技術が要求されるからであり、そして何よりも愛の仕事だからです。成功した時に得られる満足感はかけがえがありません。患者さんはハッピーになり、自分もハッピー。こんな幸福な人生は最高です。そう思えるヒントが司馬のマインドだ。司馬はこの世で最高に幸福な男なのです。司馬は感動のレベルで仕事をしているからだ。そこに人生をハッピーに乗り切る秘訣があります。だから僕も司馬でいこう!
 
2010年  残暑厳しい8月のオフィスにて

リカバリー

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1 ヒースローからオックスフォードへ

年末にロンドン郊外をドライブしたのだが、これは少しばかりタフなものだった。というのも日本からの10時間余りのフライトを経てヒースロー空港に着くや否や、いきなり空港からレンタカーでロンドン近郊のオックスフォードまで高速道路で移動するというものだったからだ。
 
しかも、ドライブのスタートは夕闇迫る午後5時過ぎである。冬の5時はほとんど夜と言ってよい。ヒースローには午後3時半頃には到着したのだが、入国やらレンタカーやらの手続きで、空港を出発出来たのはその時刻になった。なぜ目的地がオックスフォードかというと、宿泊先をオックスフォードのホテルに決めていたからだ。 だから、何としてもその日のうちにオックスフォードまで移動する必要があったのだ。
 
ドライブがタフなものであった本当の理由は、それが空の長旅の後のいきなりの高速ドライブであったからではない。あるいは、慣れぬ外国の夜のドライブだったからでもない。タフなドライブとなった理由は、何の準備もしていなかったからである。実は、日本を出発する前日まで、僕は診療に明け暮れ、あるいは歯科医師会のちょっとした仕事に没頭していて、ほとんど旅行のことを考えていなかった。今回のイギリスのドライブ旅行は僕のアイデアであったにもかかわらず、実際は飛行機の到着時刻も、当日の宿泊地がロンドンではなくオックスフォードであることもあまりよく認識していなかった。ヒースローからオックスフォードまで、どういったルートで移動するのかさえ知らなかった。そして、出発の前夜、ヒースローに到着後の当日の宿泊先が、ロンドンではなくオックスフォードであり、レンタカーで夜道を移動する日程が組まれていたことを知った僕は青くなった。現地のドライブマップを日本で入手しておくべきだったことをとても後悔した。かろうじて、飛行機に乗る直前、インターネットのgoogleから、ヒースローからオックスフォードまでのドライブマップをプリントアウトし、行きの飛行機ではその簡単なマップのルートを暗記しようと必死で努力した。しかし、あまりにそのマップは簡単なもので、そのようなラフなものでは到底、正確に目的地にはたどり着けそうにないことも分かっていた。行きの飛行機の中で、間もなく始まる異国のドライブを控えて僕はとても緊張していた。
 
 
2 ラウンドアバウト
 
案の定、僕は道に迷った。そもそも道路マップというものを事前に入手していないので、状況的にはかなり不利なのだが、それでも借りたレンタカーにナビが装備されていたのにはホットしたものだ。とはいえ、英語の音声ナビに慣れるまでは、何度となく進路の選択ミスをした。
イギリスにはラウンドアバウトという独特のサークル状の交差点があり、これに最初は戸惑った。これは要するに、信号待ちを省略するために、進行方向に対して時計方向に走行するように決められたサークルに乗り(サークルに入る前に一旦停止し、右から来る車を優先させて注意深くサークル内に入ることになっている)、何番目かの適当な出口を選択することにより左折、直進、右折ができるという合理的なシステムだ。ヒースローからM25という高速道路に乗るまでの間、何度もこのラウンドアバウトで出口を間違え、そのたびに目的地から遠ざかった。言ってみれば、左折するべきところを直進し、直進するべきところを右折するようなものだから、いつまでたっても目的地の方向に進めないのだ。目は前方の見慣れぬ景色にくぎ付けでナビ上の画面を注視する余裕はなく、選択すべきルートの音声案内を理解できた時にはすでにそのポイントを通り過ぎていた、という按配で、僕はことごとくミスを繰り返し、そのたびに目的地から遠ざかって行ったのだ。
 
 
3 リカバリー
 
  ミスの度に戸惑いはしたが、しかし決して落胆はしなかった。なぜかと言うと、ミスを犯す度に、数秒後にはナビが必ず新たなルートを提示してくれたからだ。僕が選択ミスをすると、ナビは必ずこう言う。”今、あなたは間違った道を選択しました———–。計算中。———”。そして次の瞬間、ナビは新たなルートを提示してくれる。それは必ず提示されるのだ。なぜならすべての道はつながっているからだ。そして、コンピューターで計算された修正ルートから外れないように注意深く運転していくうちに、やがて再び目的方向に近づけた。その日の夜の8時頃には無事、オックスフォードの市街に入れた時には本当に安堵し、思わずビールで乾杯した。
 
何をするにしても、今回のドライブがそうであったように、準備不足は得てして失敗につながるものだ。ルートも調査せず、いきなり移動を開始しても、ミスにミスを重ね、迷走するのだ。車窓から見える町の名前が目的地までのルート上の町なのか、全く外れた位置のそれなのかさえ分からないのだから、迷走するべくして迷走したと言える。なんとか目的地に辿り着けはしたものの、まったく冷や汗ものだった。しかし、今回の経験から貴重な教訓を得た。それは、どんなにミスを重ねたとしても、かならず冷静な計算によってリカバリー出来るという事実を体験したことだ。目的地からそれたとしても、あるいは、まったく逆走していたとしても、GPSによって現在地を把握し、目的地からの距離やそこに到達するルートを再構築することはどのようなポイントからでも可能である、ということはとても重要なことなのだ。当たり前のことのようだけれども、すべての道はつながっていることを忘れてはいけない。ゆえに、リカバリーはどんな状況からでも可能ということである。
 
このことは人生のいろいろなトラブルに遭遇した場合にも生かされる教訓ではないだろうか。あまりうれしくはないけれども、何かを企てたとして、準備が不足している場合には得てして失敗をする。その場合に、目的地に到達する意思がある限り、たとえどんなにそれが困難なことのように思えようとも、リカバリーは可能だということだ。必要なことはどこに向かいたいのかという目的地を明確にしておくことと、現在の自分の位置を正確に把握し、目的地までのルートを冷静に計算することだけだ。カーナビがドライバーを間違いなく目的地にまで運んでくれるように、その冷静な計算が必ずリカバリーを可能にしてくれるのだ。このように考えてくると、論理的には失敗は起こり得るものであるが、そこからのリカバリーも必ず可能であるということだ。
 
 
4 失敗を肯定的に捉えよう
 
失敗が避けがたいものであるなら、これをむしろ肯定的にとらえたいものだ。“失敗は成功のもと”と昔から言われてきているし、成功するために必ず通過しなければいけないプロセスと捉えれば、失敗も人生の構成要素なのだ。そもそも成功とは何だろう。意図したことが達成されることだが、誰でも最初に何かを試みるとき、身近に成功例があればそれを模倣することで失敗は避けられるかもしれない。しかし、世の中のプロジェクトは、必ずしも成功モデルが用意されているわけではないのだ。多くの場合、新しい企画は、特に独創性が必要な領域では成功事例を模倣できるケースは少ない。試行錯誤を経て、このようにすれば失敗するから、もしかするとこうすれば成功するのかもしれない、と考えてトライする。そしてその結果を分析し、それがまたも失敗ならばその原因を分析し、また新たな方法を試してみる、その繰り返しが最後に成功に導くのだ。人間の頭脳とは、そもそもそのようなプロセスを受け入れるように作られている。多くの事象の解析が原理や法則の発見につながり、一旦原理原則が確定したら、具体的にそれを技術に応用し、その技術を目的達成に適応する。このような繰り返しで、人類の技術や文化は形成され、今日の社会があるのだ。
 
 このように失敗を肯定し、体系的に失敗を研究する姿勢の価値を説いた書籍として、「失敗学のすすめ」がある(畑村洋太郎著 講談社文庫)。同書は言う。『—-日本は明治以来、先行する欧米に追随し、これをマネすることを良しとしてきました。その成果として目覚ましい発展を遂げることは出来ましたが、一方で、独自の文化、文明をつくる創造性を育む努力を怠ったために、これを欠落させたことは否めません。
 
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創造力のなさは、失敗に直面した時の対応のまずさにも顕著に現れます。真の創造は、目の前の失敗を認め、これに向き合うことからしか始まりません。にもかかわらず、起きてしまった失敗を直視できず、「思いもよらない事故」「予測できない事故」という言い訳で失敗原因を未知との遭遇にしてしまう責任逃れを繰り返しては、次の失敗の防止も、失敗を成長・発展の種にすることもできません。—-』失敗を悪いこと、恥ずかしいこと、と捉えない文化があれば、次の失敗が予防出来、さらなる大発展も期待できる、とする氏の考え方に賛成だ。
 
 
 
5 エピローグ  ~リカバリーこそ生きがい~
 
人生には失敗がつきものだ。受験の失敗、就職の失敗、失恋、結婚の失敗、離婚、誰かに裏切られる、詐欺に合う、投資の失敗、仕事の失敗、倒産、破産、失業、欠陥住宅を買ってしまう、価値のない物を購入してしまう、交通事故、病気、怪我、盗難に合う、不注意で誰かに迷惑をかけてしまう、嘘をついて信用を失う、人を傷つけてしまう、等々、数え上げたらきりがないほど人生は失敗にまみれている。そして、このような失敗はだれの身にも同様に起こるのである。失敗することが悪いことではない。しかし、最悪なことは、失敗は悪いこと、恥ずかしいこととしてそれを隠ぺいすることだろう。嘘に嘘を重ねると、最後には取り返しのつかないダメージを被る。たとえば企業が不祥事を起こしたとして、内部告発で明るみに出るまでそれを隠ぺいしようとすると、それが発覚した時のダメージは計り知れない。不可能ではないにしても、信用を取り戻すには並大抵でない努力が必要となる。だからこそ、失敗は明るく、肯定的に受け止めねばならない。失敗を隠してはならないのだ。
物事を達成することはもちろん楽しいことだが、そのプロセスも本来、楽しいはずである。苦境に陥ることはもちろん大変なことではあるが、それを克服し、目標地点に到達できた時の達成感は格別であり、その喜びはそれまでのプロセス一切合切に対する喜びでもある。つまり苦境自体がすでに楽しみなのだ。どうすれば成功できるか、ああでもない、こうでもないと思案し、試行錯誤をしている時、とても幸せといえる。たとえ苦境の真っただ中にいる時には気付かないとしても。
 
リカバリーすることは本来、楽しみの要素に満ち溢れている。先ず、どうすればうまくいくかについていろいろアイデアを練ること自体が楽しい。また、絶対負けない、くじけまい、と気合を入れること自体が精神力を試せて楽しい。失敗は十分準備することで予防が可能だと思うが、たとえ失敗が起きてしまったとしてもリカバリーを楽しむ気分で取り組めばいいのだ。
 
かならずリカバリーは可能であることが約束されているのだから。すべての道はつながっているので、一時的に迷ってもカーナビゲーターシステムを用いれば、必ず目的地に到達できるように。自分自身の中にナビゲーターシステムを内蔵することで、失敗は必ずリカバリー出来る。信念の力でリカバリーを達成しよう。このようなファイティングスピリッツで自分の本業に取り組みたい。そしてこのようなスピリッツを人々と共有したい。だって、多くの患者さんは健康を損ねるという失敗を経てわれわれの元に来られるのだから、自分もその失敗のリカバリーを患者さんと共に取り組み、そしてそれを共に楽しみたいのである。
 
 
平成22年3月22日

年頭所感 2010   知は日本を救う  ~Intelligence creates our bright future~ 

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 1 “坂の上の雲”や“龍馬”がブームの理由

 “秋山真之、好古兄弟”や“坂本竜馬”がブームである。自分も、年末はNHKのスペシャルドラマ“坂の上の雲”( 全11回の放送予定のうちの5回分)と、年始は大河ドラマ“龍馬伝”をおおいに楽しんだ。前者は明治維新から日露戦争までの明治時代が、後者は幕末が舞台である。そして、両者とも日本の危機を救った英雄のドラマであり、エンタテインメントだから当然面白い。
 
でも、単純に楽しんでばかりではいけない。 なぜ、この今という時代に、NHKは時代の変革期に生きた英雄のドラマを制作したのだろう?その答えを考えることには意味がありそうだ。この辺りから今回は書き始めたい。
 
  NHKは国民の望む放送を提供する立場だから、当然のこととして、製作前に市場調査というか、国民が見たい番組の下調べは行ったことだろう。だとすれば、多くの国民が時代の危機を救ったヒーローの物語を見たがっていたということになる。それは、裏返せば、今の時代が閉塞しており、現状を打破する爽快感をせめてドラマで感じたい、救われたいという希望の表れであろう。そうなのだ。われわれは今、時代の閉塞感の中にいる。日本経済は不況であるし、多くの業界においてこの先V字回復が見込まれるような明るい材料に乏しい。加えて、政治においても、期待していた民主党政権の雲行きも怪しい。政治と経済の両方が低迷しているから、この先我が国は混迷から衰退に向かうのではないかという不安な気持ちに国民全体が陥っているのだ。こういった危機的な気分が“坂の上の雲”や“龍馬ブームの背景にあると考える。旧体制を打ち壊し、明治という新しい時代、当時の人々にとっては希望の持てた時代を切り開いたヒーローの再来を、そして希望の持てる時代の到来を現代人は熱望しているのである。
 
2 我が国の危機とは
 
  現在、我が国は明治以来の危機的状況にあると多くの知識人は言う。「危機」の大方の意味は、経済的な危機を指しているようだ。エコノミストの分析では、日本はまもなく世界第二位の経済大国の地位を滑り落ち、中国やロシア、インド、ブラジルなどの新興勢力の後塵を拝することになるらしい。したがって、多くの日本の大企業はマーケットを多くの人口を抱えるこれらの国へ移し、新興勢力に対抗する戦略を立てているようである。
たしかに、国内に目を向けるだけでも不況の出口が未だに見えず、経済的危機は実感できる。しかし、経済に好不況はつきものだから、不況はいつか脱し、そのうちには好況が来るものと思うが、なぜ現在の危機がかつてないほどに深刻で、いわば国家的危機なのだろう。
 それは、この危機への対応を間違えると、日本は未来永劫にわたって再び上昇することはなく、二度と再び世界の指導的立場には立てないとする読みがあるからなのだ。かつての大英帝国がその繁栄と栄光を失い、社会の活力そのものを失い、サッチャー首相の登場まで長く低迷を続けたように、我が国も今後は衰退の一途をたどり、国際的には二等国に甘んじなければならないとしたら、やはり国家存亡の危機といえる。
 
 ところで、幕末から明治にかけて、我が国の指導者は大変な危機意識を持っていた。当時の危機意識とは、日本が圧倒的に国力の差のある欧米列強の属国となることだった。ゆえに、明治政府は富国強兵策をとり、産業においても、軍事力においても、欧米列強に追いつこうとし、日本の独立性を保とうとした。また、精神面においても、福沢諭吉の独立自尊の思想が広く国民に浸透し、秋山兄弟のような国家の危機を救う逸材が多数輩出したのだ。その結果、日本は奇跡的に自主独立を保つことが出きたわけだから、われわれ現代人は明治の先覚者に感謝しなければならない。彼らが危機意識を持ってくれたからこそ、今日のわれわれがある。
 
  さて、現在の我が国の危機とは何だろう。今日では、明治初期のように他国が軍事力を背景に侵略してくるとは考えられない。そうではなく、今日の危機とは世界の中における日本の立場の喪失なのだ。
 第二次世界大戦が終わるまで、我が国は貧しかったのだが、戦後の高度経済成長により、我が国は初めて国際レベルで先進国の仲間入りをした。そして、経済力を背景に国際舞台で、日本は政治や産業、サイエンス、教育、スポーツ、文化交流など、さまざまな局面で我が国の考え方を主張し、その価値を世界に認めさせることがある程度できた。たとえば、かつて世界中でsonyのテレビが見られていたように、日本製品といえば高精度、高機能というイメージが普及した。ジャパン・テクノロジーは今でも信頼を勝ち得ているのだ。つい戦前までは日本製といえば粗悪品と思われていたにもかかわらず。あるいは、日本の禅文化が海外に紹介され、キリスト教以外の精神文化がキリスト教国において認められたのは、経済的繁栄と無縁ではない。もしも、戦後も一貫して日本が貧困で、世界レベルで通用する産業が何一つない東洋の小さな島国であったなら、仏教的価値観など先進国で認められなかったと思う。日本人は単なるエコノミックアニマルではなく、高い倫理観と周囲の人々と協調的に生活することを重視する独特の精神文化をもった高質の国であることを、日本は経済力によって国際舞台で認められたわけだ。
 
3 なぜ、日本は先進国の地位を保つべきなのか 
 
 その我が国の生命線である経済力が今後、長期的に衰退に向かうという。そして、一部の知識人は、かつての経済力は不要だという。物質的繁栄を追求しすぎた結果、日本はどうなったかというと、精神の荒廃を招いたという。確かに企業の不正は後を絶たず、政治家までも虚偽申告をする時代ではある。だからと言って、精神の豊かさだけを追求するのもちょっとどうかと思う。そもそも精神の豊かさとはどういうものだろう。嘘をつかないことだったり、約束を守ることだったり、困っている人を助けたり、何かについて勉強したり、絵画や音楽などの芸術やスポーツ、趣味を楽しんだり、そういったことが精神の豊かさだろうと思う。でも、そういった精神は、現実の個人レベルで考えると、生活が安定しないと保てないものじゃないかと思う。生活力があって初めて礼節をわきまえることが出来るし、人を助ける心の余裕も生まれるのだ。つまり、精神の豊かさは経済の安定があって初めて得られるものだ。したがって、精神の気高さや余裕があれば、経済的には小国でもよいという意見には反対である。世界の中で日本人の考え方や価値観を認めさせるには、経済的なバックボーンを持っていないと無理なのだ。そして、今、世界は日本人の考え方や価値観を必要としているのだ。あるいは間違いなく、近い将来、必要になるのだ。
 
4 テクノロジーこそが我が国の生命線
 
なぜかと言うと、たとえ、中国や、インド、ロシアやブラジルが台頭してこようとも、地球環境は間違いなく劣化していくからだ。われわれは種の存続をかけて良好な地球環境の保全を心がけなければならない。その際には国際的な協議によって実効性のあるルールをつくることが大切だが、我が国はその際にオピニオンリーダーとならなければならない。自国の利益優先でなく、地球規模で地球全体の利益を考えてものを考えられるのは、我が国をおいて他にはない。日本は貧困も繁栄も両方経験しているので、先進国に対しても、途上国に対しても両方の気持ちが理解できるのだ。加えて、他国と競合するのでなく協調的に対処できる日本人のマインドが、国際舞台で活躍できる可能性を保証する。軍隊を持たない日本が、世界各国が地球規模の危機に直面した時に救世主足りえるのだ。そして、その時に備えて発言権を持つために、国力を貯えないといけない。
間もなく地球は資源が枯渇し、また環境が悪化し、生物学的に生存が危ぶまれる状況が出現する。経済的にも産業資源が枯渇し、必要な物資が供給されなくなる。そういった場合には、自国優先の強国を諭すだけでなく、まっとうな国家としての手本を示すために地球環境の改善のための行動を起こさなければならない。宇宙に行くのだ。地球の資源が枯渇すれば、他の惑星に行って採ってくるしかないだろう。宇宙を移動するスペーステクノロジーが必要となるし、この新たな需要の出現によって新たな関連産業が発展するだろう。あるいは、地球上においても日本は地球環境の改善に寄与できる産業のトップランナーとなるのだ。この面においても、今後も我が国は世界の一流レベルを維持できる可能性がある。政策面で目先のことだけを考えて、サイエンスの発展に必要な投資を惜しみさえしなければ。テクノロジーこそが我が国の生命線なのだ。そして、先端的テクノロジーの開発を支えるのは知力なのである。我が国は世界レベルの頭脳を供給する、人材派遣会社のような国家とならなければならないのだ。
 そのためには有為の人材を育てる教育が国家的最優先課題だ。そして、経済的繁栄の価値をしっかりと認識出来る人材を育てなくては駄目だ。マイホームや車は必要ない、稼ぐ必要もないと考える多くの現在の日本の若者には我が国の将来を託せない。ニートやフリーターになるのがおちである。真のリーダーになるために、そして他者に良い影響力を及ぼせる人間になるためには、経済的繁栄が大切であることをしっかりと自覚した若者が日本に多く輩出してもらいたいものである。次世代の若者に期待したい。
 
5 まとめ
 
  つまり、日本が抱えている危機の本質とは、将来間違いなくやって来る地球の存亡の危機において、日本のアイデアを世界に納得させこれを実現させ得るか、あるいはアイデアはあるのに国力がないばかりに列強国の意見に従わされ、みすみす地球全体の衰退を指をくわえて見守り、他国と共に沈んでいくのか、の選択の岐路に立たされていることだろう。もちろん前者を選択して欲しい。これはある意味、自国の利益のみを考えていればよかった明治の危機よりもはるかにスケールアップされている。日本は、国家存亡の危機というより、地球存亡の危機において、何らかのアクションを起こして世界を救済できるか否かの瀬戸際に立っている。地球全体の平和と繁栄を考えながら行動できるところに、かつて繁栄を経験し、独自の道を歩んできた品格のある国家、わが日本の価値がある。われわれが生き残れるかどうかは、他者の利益のために行動できるか、どうかにかかっているのだ。
資源のない我が国は、知力をもって国運を切り開くしかない。そして、気骨ある明治の先覚者が、まっしぐらに富国強兵に突き進んで我が国を先進国の仲間入りさせたように、現代のわれわれもまた坂の上の雲をのみ見つめ、まっしぐらにテクノロジーに立脚した心正しい世界の指導国を目指さなければならないと思う。
 大きなことを書いたが、繁栄のための原理原則はわれわれの身の回りの歯科医療の世界でも同じだ。自院のみの繁栄を考えるのではなく、地域の歯科医療を、ひいては日本の歯科医療全体のレベルの底上げを願って頑張るような歯科医院こそが、混迷の21世紀を勝ち抜いていけるのだと思う。
 
100211  建国記念日 オフィスにて 

発 明

1 今回は発明について考える
 
 このコラムでは現在の自分が関心を持っていることをテーマとして取り上げているのだが、今回は発明がテーマである。なぜ発明かというと、発明のスピリッツの部分が今の自分の心情にピッタリ当てはまるからである。なぜ、当てはまるのかということは感覚的なものであるから説明が難しいが、これからその点について、できる限り分析を試みてみたいと思う。
 
2 発明とは何か
 
  「発明」の語義は、日常会話レベルでは「これまでにない新たなものを作り出す」程度の意味合いであろう。似たような言葉に「創造」があるが、こちらの方は発明よりもより崇高なイメージがあり、たとえば詩歌や文学、絵画、音楽などすべての芸術活動は唯一無二の価値を作り出すわけだから、まさに「創造」がふさわしい。芸術にとどまらず、科学、教育、政治やビジネスなどの様々な分野においても、無から有を作り出す営みはすべて「創造」である。創造の語感のもつ厳かさの極みは「天地創造」や「万物の創造」というように、神の領域の所業を表現する場合にみられる。
ひるがえって「発明」の方は、もっと実利的な匂いがする。必要は発明の母といわれるように、「発明」は一般の人々の実生活に直接役立つことを目的とするニュアンスが有り、学問のなかでも実学と呼ばれる領域に基盤をおくような気がする。ここに発明のわかりやすさがある。一見価値があるか、ないかわからないようなものであっても、唯一無二の創作物であれば「創造」であるが、「発明」は明確に社会の役に立たなければ「発明」とは呼ばれず、発明には社会貢献をする使命の様なものが伴うのである。しかも、その創作物は既存のものに類似することが許されない。発明とは独創であり、基本的に唯一無二の創造であらねばならない。
このような苦しい思いをして社会に有益な発明品を提供したとしても、これは発明の宿命であるが、その技術は追随者から研究され、模倣される可能性がある。これでは発明者は浮かばれず、不利である。そのために、発明者には社会に有用な発明品を公開することと引き換えに、特許という制度を設けて、発明を他の人に使用させたり、独占的な権利を発明者に与えたりすることで、発明者個人の利益と社会の利益とのバランスが保たれるようになっていると思われる。
 
このようなものが発明であるとしたら、世に芸術家というものは多く存在するとしても、発明家と呼ばれる存在はそう多くはないだろう。職業として芸術に取り組むものを芸術家、職業として発明に取り組むものを発明家と呼ぶとすると、発明は創造行為の中でも極めて限定されたもの、すなわち社会に実利を提供する創作物を取り扱うので、創造者の中でもごく一部のものしか発明家に該当しないことになる。つまり、発明家であることはイバラの道を歩くことなのだ。
 
 そこまでして、何のために発明しようとするのか。そこのところが発明のスピリッツにつながると憶測している。発明家でもない自分が勝手に想像しているのだが、発明のスピリッツとは社会の役に立つことを前提というか、使命とする創造を通しての魂の修行なのではないかと思う。厳しい山岳道をひとり、黙々と歩き続ける修験者のような信念というか、ひたむきな何かがなければ、発明を目指す創造的生き方は継続できないものと想像する。その創造は相当に困難な作業で、大変な苦しみを突破しなければ結果がだせないチャレンジなのだ。発明のこういうところが、今の自分の心情とリンクするのだろう。安易なことでは結果がでず、うんうんとうなりながら、寝ても覚めてもひたすら考え続け、試行錯誤を繰り返し、失敗、失敗、また失敗の山を築き上げ、それでもへこたれずに継続する精神。そして最後に頭脳に一条のひらめきの閃光がさし、ついに困難を極めた障害を突破できる時の恍惚といえる快感。そういった、苦しみを乗り越えた後に味わえる幸福感のようなものが発明者の原動力になっていることは想像に難くない。自分もスケールは違うが、大学院生の時代に研究生活に明け暮れ、昼夜、実験室に入り浸っていた生活を経験しているので、研究者がなぜ苦しいイバラの道を歩いていけるのか、理解することができる。
 
3 ドクター・中松の例
 
  発明のスピリッツの神髄は、世の中の役に立つものを創造するためのチャレンジ精神であり、究極的には魂の修験者になることだ。このような行為を持続できる精神構造に自分は関心をもつのである。自分が発明家になれるとは思っていないが、そのようなハードな生活を維持できる精神構造には極めて関心がもてるのである。というのは、発明家のスピリッツを研究することによって、彼らのハートが我々凡人の心の道先案内というか、心の持ちようを教育してくれるような気がするからなのだ。では、発明家の精神のなにが我々一般人の役に立つのだろうか。ここで、発明家の具体例として、日本の数少ない発明家、ドクター・中松こと中松義郎氏を登場させよう。
 
 ドクター・中松の業績については、彼の著書で調べた限り、発明件数は3,351件(2007年9月現在)にのぼり、エジソンの1,093件を抜き、世界第一である。また、IBMに16の特許をライセンスしている世界唯一の個人とのこと。『ニューズウィーク』誌の「世界12傑」に日本人から唯ひとり選ばれている。
 
4 発明のスピリッツは物事を前向きにとらえる精神
 
 上述のようにドクター・中松の経歴は異彩を放っている。そして、自分の栄誉を臆面もなくひけらかす人物は煙たがられる風土が日本にはあり、彼の発明の一部は眉唾物だと批判するものもある様だ。加えて、都議選にたびたび出馬していることから、変な人扱いされる要素が十分にある。この点に関しては、自分には検証する手だてはない。実際のところ、彼がフロッピーディスクの技術のコアの部分を発明したのかどうかはわからない。しかし、彼の書物を通じて見聞きできる彼の発言には本物だと信じられる部分がいくつかある。例えば以下に示す発言は、本物でなければ言えないと思われる。ドクター・中松著『バカと天才は紙二重 「ミサイルUターン」発想法』(ベスト新書発行、2008年)から引用しよう。
 
 『「発明の心は愛の心。人生における目的も、相手が喜ぶことを喜びとする」——「発明」という文字をよく見てください。「明るさを発する」もの。これは取りも直さず、「世の中を明るくする」こと。人々に幸せをもたらし、人々が喜ぶものをつくること。これが発明なのです。—-』
 
 『「ダメ・無理・難しい・できない——を絶対いうな」—-会議などで様々な提案が出たときに、すぐに「そりゃダメですよ」「それは無理ですよ」「難しいんじゃないかな」「そんなことできないよ」といったことを口にする人がいます。これこそ「バカ」で「ダメ」な人で、また会議であちらこちらから口々にそんな声が聞こえてくるような会社は、間違いなく「ダメ」で「バカ」な会社です。—-』
 
『楽しまずして、これなんの人生なりや—–人生というものは、楽しまなくてはなりません。ひとたび人として生まれたのなら、死ぬ瞬間まで「いやだ、いやだ」と言い続けて一生を終えたり,数々の悲惨な運命を背負い、その揚げ句に死を迎えるというのでは、生まれた意味がありません。この世に人として生まれた以上、楽しまなくて何のための人生か。「嬉々として楽しい人生を送る」ということが、生きる上でことさらに重要なことなのです。—–たとえ、どんなに険しく苦しみを負った人生であっても、精神が楽しく生きているのなら、それは楽しい人生なのです。』
 
『天才は人生を楽しむコツを知っている——人生を楽しむコツ、それを天才は、いちばんよく知っています。むしろ、この人生を楽しむコツを知っているからこそ「天才」といえるのです。「バカ」はそれを知らないのです。ここで私の創造語で座右の銘の「撰難楽(せんなんらく)」をご説明しましょう。「撰」とは「選ぶ」、「難」は「困難」、「楽」は楽しむ、この三つをつなげて「撰難楽」。人は、山もあれば谷もある、そのような人生の道を歩いていきます。そこには、どんな時にも、やさしい道と難しい道、その二つの道があります。普通の人は100パーセント、やさしい道を選びます。その方が楽だからです。多くの人は人生を楽に生きようとし、そうして何の困難もなく人生を終えることを望むものです。もう一方の難しい道を選ぶ人はいないのです。困難な道を行って苦労するのは嫌だからです。「バカ」は特にやさしい道が大好きで、必ずやさしい道を歩きます。しかし私は、この誰も選ぼうとはしない道、嫌な道と思われるような道、困難な道をあえて選んで来ました。これがつまり「撰難」です。—– このような種々の困難を越えていく過程が、まず楽しいのです。——- 天才の人生の楽しみ方は、普通の人であればやらないことにあえて挑戦し、困難に立ち向かい、そしてそれを楽しむ、ということです。それこそが、人が人生を楽しむためには重要なコツなのです。』
 
  このような発言を聞くと、これは発明家というより、どのような人にも役立つよき人生の指南役の発言といえそうだ。こういうことは、他の哲学者や起業家、カウンセラー、宗教家、教育者等による人生の啓発書にも書かれていることだからだ。これらの発言は人生を成功に導く箴言と思える。ということは、ドクター・中松の一連の発言をもってして、かれは本物と判断してよさそうだ。本物の発明家かどうかは判らないが、本物の人物であることは間違いなかろうと思う。その人の行動の源泉が愛である、などと正面切って言える人は、少なくともまっとうな人なのだ。こういったところが、彼の言動に対して率直に耳を傾けるに値すると自分が思う理由なのである。
 
5  ネバー・ギブアップの精神が発明の真骨頂
 
発明に関して考えてきたが、発明家にとても共感を覚える最大の部分は、「絶対にあきらめない」ことを一番の信条にあげているところだ。失敗、失敗、また失敗。おびただしい失敗を重ねながらも決してあきらめず、工夫を凝らして別の角度から切り込み、その繰り返しで、最後には目標を達成。このプロセスを楽しむ。これが発明だろうと思うし、これは自分がとても大切だと考える生きる姿勢だ。そして、これは世のあらゆる成功者に共通の心構えだろうと思うし、自分もそうありたいと思っている。仕事において思う通りに結果が出せないこともままあるし、思うに任せない人生であるが、決して投げ出したくない。言い古された言葉ではあるが、“Never give up!”の精神は人生の成功のためのゴールデンルールだろう。
 
6 発明の神髄は運命を自らの力で切り開く精神
 
こうして発明について考え、文章を書いているうちに、なぜ自分が発明家的生き方に共感を覚えるかという疑問に対する答えが見えて来た。なぜ、今、発明なのか?それは自分が今、生きる上でとても大切だと思う価値観に関係しているのだが、発明に取り組む姿勢は自分が理想とする人生に取り組む姿勢と同じということに帰結するのだ。これまでにないものを創造する行為は苦しいけれどもやりがいがある。どこかに解決の糸口があるはずだと必死になって突破口を見つけようとする行為。運命とは天から与えられるものではなく、自らの意思で作り出すものだという考え方に立って、ひたすら自分の人生をデザインし、その実現に向けて四苦八苦するプロセス。両者は同じものなのだ。発明の精神は運命を自らの力で切り拓こうとする精神なのだと思う。そこが、今、自分が発明家の精神に共感を覚える理由だ。
運命は予定されたシナリオを天から与えられるものでなく、自ら創り出すものであると信じているので、思うに任せないのはまだ自分のがんばりが足らないからだと考える。決して他人のせいにはしたくない。自分の足で地面に立ち、自分の力で自分の人生を創造したいのだ。そして、思ったとおりの人生を生きることが出来たことを成功者の証とするならば、人は皆成功者になれる可能性を持っていると思う。それはいかに失敗を繰り返そうとも、成功するまでやめなければ、必ず最後には成功してしまうはずだからだ。 
 このような姿勢の持ち主を発明家と呼ぶなら、発明家は決して天才でなくてもなれるだろう。そして小さな発明でよいから、自分も何かを発明をしてみたいと思う。そのような生き方こそが、ドクター中松のいう、人生を楽しみながら生きることだと思う。発明の対象はものに限らず、何でも発明の対象になるのだ。たとえば、英語が堪能になる方法とか、健康で長生きする方法とか、忙しくて時間がないはずなのに何かを創作することができる時間管理術とか、どんな分野でも発明の対象が埋もれている。人生は楽しくなくちゃいけないから、さあ、何かを発明しよう!
 
平成21年8月24日
ドクター・中松 著『バカと天才は紙二重 「ミサイルUターン」発想法』
(ベスト新書発行、2008年)
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再  生

 再生に関心を持っている。「再生」という言葉はいろいろな意味で用いられるが、一般的には「民事再生法」等の用語に見られるように、「死にかかったものが生き返ること」の意味合いで使われる。また、発生生物学における「再生」とは、トカゲの尻尾が自切しても生えるような、損傷を受けた組織や器官、四肢などが復元される現象をいう。さらに、医学の分野では、21世紀の最も期待される医療として「再生医療」という分野が存在するが、ここでの「再生」は「失われた組織・臓器が形態・機能ともに元通りになること」を意味する。いずれの意味の「再生」に対しても関心があり、魅力を感じる。
 
なぜ自分が再生に関心があるかというと、「再生」に希望を感じるからだろう。今、日本を含めて世界は不況の只中にあり、米国の基幹産業と思われていた自動車産業のビッグスリーでさえ破綻しようとしている。世相を見れば、経済だけでなく、年金制度や教育制度、政治制度など、諸々の社会制度が疲弊した結果、実に様々な問題が吹き出ており、社会システムそのものが機能不全に陥っているかのようだ。現代は、信じていた価値観が失われようとしている時代であり、喪失の時代なのだ。このような現代に求められている気分は「再生」なのである。「再生」には、本来備わっていた良きものを取り戻そうとする期待というか、希望が感じられるからだ。
 また、「再生」に関心を持つさらなる個人的理由として、自分の職業選択とも関係しているし、あるいは自分の運命そのものとも関係しているといえるが、大げさにいえば、自分は「再生」と関わるために世に存在しているような気がするからだ。いわば、「再生」と取り組む事は自分の使命のような感覚があり、その感覚こそが「再生」への関心の根源だろう。どういうことかというと、自分は傷ついた人間が立ち直ることが大好きなのだ(余談ですが、自分の好きな映画のカテゴリーの一つに、傷ついた人間が立ち直っていくヒューマンドラマがあります。“グッドウイルハンティング”は好きな映画の一つだが、劣悪な環境で育ったために人と素直に関われない数学の天才グッドウイルハンティングが、愛妻を失い失意の中で生きる大学教授と出会い、生まれて初めて心を通わせる事が出来るようになったことから、両者ともに再び真っ当な人生を歩み始める、という感動のストーリーです。あるいは、タイトルは忘れたけれど、ポールニューマンが主役をやっていたのだが、ある出来事がきっかけで法廷に立つ事をやめ、アル中になった酔いどれ弁護士が、再び社会正義に目覚め、法廷に立ち、誰も信じなかった勝利をつかむという人生の再生ドラマも好きです)。そして、傷ついた人間が立ち直ることに協力することも大好きだ。これは歯科医になった原点のスピリッツ。健康という、かけがえのない財産を喪失した患者さんといっしょになってそれを取り戻すために、自分は医療人となった。そして自分自身の人生を振り返ってみても、決して順風満帆ではなかったが、失敗の度に失意のどん底から立ち直ったし、艱難辛苦を克服する事自体に救いというか、楽しみを見いだせる事を知った。いわば逆境も人生の妙味であり、順境も逆境も人生には用意されていて、四季が繰り返されるごとく、両者も交互に人生に繰り返し訪れるようになっているのだろう。順境の時は逆境に備えなければならないし、逆境の時は全力で事態が好転するように「再生」に真摯に取り組まねばならない。人生は破壊と再生から成り立っているのだが、破壊された後には、再生する努力をしなければ人生は駄目になってしまうのだ。社会的な意味合いでも、医学的な意味合いでも、あるいは個人的な人生という意味合いでも、再生とは関心のあるテーマなのです。
 
  さて,話は再生医療に関してだが、現時点では再生医療は三つのカテゴリーに分けられる。一番目は個体レベルの再生であり、二番目は臓器レベルの再生、三番目は組織レベルでの再生である。
一番目の個体レベルの再生とは、個体を丸ごと再生しようとするものであり、クローン羊のドリーを生んだ体細胞クローンという技術を再生医学に応用するものだ。ドリーは、核を除いた卵子に成熟した皮膚の細胞核を移植し、代理子宮の中で育てられたのだが、この実験から成熟した細胞から別の個体が造られる事が示された。しかし、このクローン技術は、受精卵を用いる事を前提とし、全く自分と同じ遺伝情報を持つ個体がもう一つ出来る事を意味するので、人体再生に直結し、倫理上の大きな問題が残されているため、実用化されていない。
二番目の臓器レベルの再生とは、ES細胞(embryonic stem cell)を用いて臓器丸ごとの再生を目指すものである。ES細胞は受精卵の内部細胞塊を培養した細胞で、ほぼ無制限に分裂を続け、理論的にはすべての細胞に分化し、人体のどのような臓器も造れる可能性があるため「万能細胞」とも呼ばれている。このES細胞にクローン技術で核移植を行う事により、遺伝的に同一のクローン臓器が理論的には無尽蔵に入手可能である。また、ES細胞を、思い通りの分化した細胞に導く事が出来れば臓器丸ごとの再生が可能であるが、現在そこまでの技術は確立されていない。そして、ES細胞の利用も受精卵を使うという点で倫理上の問題が残っており、臓器レベルの再生も実用化のめどは立っていない。
三番目の組織レベルの再生は、ティッシュエンジニアリング(組織工学)と呼ばれる領域である。原則として、生殖細胞のES細胞を使用せず、体の中に残っているいろいろな細胞に分化する能力を保有する幹細胞を取り出し、これを利用して組織を再生するバイオテクノロジーである。患者さん自身の細胞を使うので、拒絶症も感染のリスクもなく、受精卵を使用することもない事から倫理的な問題がなく、三つの再生のうち、この領域の再生が最も期待出来る。現に、実用化されている再生医療は、ティッシュエンジニアリングだけだ。「幹細胞、足場、サイトカイン(細胞増殖因子)」という三つの要素で組織を再生するティッシュエンジニアリングは、今のところ、医科、歯科を含めてすべての領域で臨床応用が可能であり、今世紀に飛躍的に発展し、医療の内容に大変革を起こすと期待される技術として大いに注目されている。具体的には培養皮膚による熱傷の治療が有名だが、口腔粘膜を細胞供給源とする培養角膜による角膜移植、骨髄幹細胞を細胞供給源とする骨軟骨疾患に対する骨や軟骨移植、閉塞性動脈硬化症に対する血管新生療法などがすでに臨床応用されている。再生療法のアプローチも、1)組織や臓器を新たに創造してそれを移植するもの、2)細胞の再生を促進させる因子が発見されたら、それを注射する、あるいは塗布するもの、3)細胞を注入するもの、たとえば血液疾患の治療にみられる骨髄細胞を注入するとか、自己の幹細胞を注入するもの、などいろいろある。
ティッシュエンジニアリングにおいて、幹細胞を使用するというのが肝の部分で、幹細胞とは未分化な細胞であり、かつ、骨、軟骨、脂肪、筋、肝臓、神経、肺、胃腸管の上皮細胞、皮膚、膵島細胞等の様々の細胞へ誘導され分化することが可能な細胞である。いろいろな形質の細胞に分化する能力が潜在しているので、細胞の供給源としては超魅力的な細胞だ。 
歯科においても再生療法はすでに臨床応用されていて、歯周治療やインプラント治療においては、骨不足部位に対して骨移植だけでなく、歯周組織再生誘導法(guided tissue regeneration: GTR)やGBR (Guided Bone Regeneration )、エナメル基質蛋白(EMDOGEIN®:エムドゲイン®)や血小板由来増殖因子(GEM21®)といった細胞増殖因子の局所注入による再生療法が臨床で行われている。また、骨髄幹細胞を用いた歯周組織再生として注入型培養骨による骨再生が注目を集めている。さらにうれしい事に、骨髄以外にも幹細胞は存在して、例えば最近の報告では歯髄や脂肪組織の中にも幹細胞があるらしいのだが、そうなれば、幹細胞、足場、増殖因子の三つの因子を駆使した歯周組織や骨の本格的な再生医療が、我々の身近な診療室で展開される日も近いかもしれない。
 
臨床応用を目指した基礎研究の目覚ましい進歩にも心が躍る。たとえば、ES細胞から分化した膵島細胞を実際に糖尿病動物モデルに移植したところ、2週間にわたる明らかな血糖値の改善が見られたという。遺伝子解析をしたところ、膵島細胞は膵臓の発生に必要な遺伝子をほぼすべて備えており、電子顕微鏡的による検索により、インスリン分泌顆粒の存在が証明されたとのこと。将来的にヒトのES細胞からヒトの膵島細胞を大量に安定して分化させる技術が開発されるようになれば、多くの糖尿病患者さんが救われることになろう。
 
 このように見てくると、近い将来歯科を含めて、医療に大変革が訪れる時期はそう遠くないだろう。その時には、今はベンチャーに過ぎないバイオテクノロジー企業は、現在のトヨタのごとき巨大企業へと発展しているかもしれない。今後、歯科医療の内容も大きく変貌を遂げるだろうが、是非そのような時代まで現役歯科医であり続けたいものである。冒頭で、自分が「再生」に関心を持つわけについて陳述したが、本音をいえば、再生医療は健康長寿にも貢献すると思うからである。つい最近まで、中枢神経は再生しないと信じられていたが、うれしい事に、最近、中枢神経にも神経幹細胞が存在し、これにより中枢神経も再生することが報告された。従って、再生医療の発展は現在では手の打ちようがないアルツハイマーや脳梗塞などによる中枢神経障害も治癒する可能性が示唆された事になる。生き生きと健康な状態で死ぬ直前まで思う存分に働き、楽しみ、思う存分人生を謳歌出来る時代が到来するまで生き延びたいのだ。要するに長生きしたいのです。再生医療は、クオリティーの高い状態で長生きさせる医療の可能性を持っており、自分はそれに着目せざるを得ないのだ。実に悔いの多い人生であるからこそ、自分の人生を取り戻すためにも、長生きをせねばならない。人並みの結果をこの人生で出すためには、人並み以上に長く生きなければその目標は達成出来ぬ。あれもしたい、これもしたいという事ばっかりで、アイデアは山のように残っているのに、人生とグッドバイをしなければいけない、なんて残念過ぎます。自分は達成したい事が山ほどあるので、長生きを目指したいのだが、再生医療はきっとその願望をサポートしてくれるだろう。再生医療への興味は尽きる事がない。僕らはワクワクする時代を生きているのですね。
 
平成21年5月31日   自宅にて

カサブランカ

土曜の夜、ほっとした開放感から、映画「カサブランカ」を自宅のDVDで見た。少し疲れを感じた時は古い映画を見てなごむ事が多いのだが、「カサブランカ」は間違いなく期待を裏切らない作品だ。いつも見終わった時にはとてもいい気分になっている。恋愛映画の金字塔と云われる本作品は1942年制作だから、ずいぶんとクラシックな映画なのだが、DVD版の画質はとても上質で、白黒だが古めかしさを感じさせない。何度見ても楽しめる僕の大好きな映画の一つだ。これまでに繰り返し見ているから、これが何度目か分からない。僕が生まれる前の映画だから、最初に見たのはNHKの映画放送だった。その後、何度もテレビの映画放送で見たし、自分でもビデオを購入し、今はDVD版でも持っている。
 
 なぜ、映画「カサブランカ」はこれほどまでに僕を含めて多くの人を魅了し続けているのだろう?アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞の3部門を受賞した不朽の名作であるから、映画としての完成度が高いのは当然なのだが、それにしても70年近く前の映画が現代においても魅力を放ち続ける理由について考えてみる価値はありそうだ。そこには、なにか普遍的な人を惹きつける要素というものがあるに違いない。
 
 まず、音楽。これがよい。劇中で流れる“時の過ぎ行くままに”は、学生時代に下宿で聞いていたFM放送の何かの番組でよく流れていたからとても懐かしい、というのは個人的な理由に過ぎないが、メロディそのものが魅惑的であることは間違いないのだ。この楽曲は劇中でも重要な役割りを果たしていて、フランス領モロッコにあるカサブランカの酒場の経営者である主人公リック(ハンフリーボガード)は黒人ピアノ弾きサムに普段はこの曲を弾くことを禁じていた。ある夜、自分の酒場でこの曲が演奏されるのを聞き、サムに演奏を中止させようとオフィスから酒場に降りてくるのだが、なんとその場で、自分がパリで別れた昔の彼女イルザ(イングリッドバーグマン)と出くわす。実はその曲をリクエストしたのはイルザだったのだ。その曲こそがリックとイルザが二人でよく聞いた思いで深い曲であり、過去を忘れたいリックはサムにその曲の演奏を禁じていたのだった、という設定で、音楽が劇中で主人公と昔の彼女との再会の重要な場面で使われている。だからとてもセンチメンタルなメロディの楽曲が必要なのだが、“時の過ぎ行くままに”はまさにその場にぴったりの音楽だ。
 
 二番目の要素は、インターナショナルな情緒だ。アメリカ人であるリックとオスロ出身のイルザがパリで出会い、恋に落ちる、というところからしてインターナショナルだが、パリでイルザに裏切られ、失意の日々を過ごすリックが再び彼女と巡り会う場所がアフリカのフランス領モロッコという舞台設定もインターナショナルでエキゾチックだ。ナチスドイツがヨーロッパ全土に侵攻を進めている第二次大戦下のモロッコが舞台だから、モロッコを統治するフランス植民地警察所長ルノーや、そのフランスを支配下に置くドイツ陸軍シュトラッサー少佐も登場する、というように非常に登場人物もインターナショナルなのだ。
 
 三番目の要素として、そしてこれこそが最も重要なのだが、全編に流れるハードボイルドなムードが挙げられる。ハードボイルドといえば、今ではバーボンとトレンチコートが定番のようになっているが、そのルーツは本作品らしい。ドイツ軍の侵攻を逃れて共にマルセイユに逃れる約束をイルザと交わしたにもかかわらず、雨のパリ駅で待ちぼうけを食わされズブ濡れになる時も、ラストシーンの夜霧のむせぶ飛行場でイルザとその夫ラズロをリスボン行きの飛行機に乗せて見送る時も、リックはトレンチコートに身を包んでいるのだが、確かにトレンチコートは男の哀愁を漂わせて格好いい。ウイスキーも重要な効果を演出していて、人間の心の弱さの象徴として、そして同時に男の格好良さの象徴として登場する。忘れたくても忘れられないイルザとの過去を引きずりながら苦悩するリックは、夜一人自分の部屋でウイスキーを煽る。机の上にはウイスキーボトルとグラスがおいてあり、タバコを燻らせながらグラスを煽るのは格好いい(白人は、日本人のように南京豆やさきいかなどのつまみをとらずに、酒だけをひたすらグビグビ煽るみたいです。これは格好いいけど健康にはよくないですね。数年前にイギリスとアイルランドを旅行した時も、パブでは誰一人としてつまみを食べていなかった)。ウイスキーは格好いいだけではなく、心の弱さの象徴としても登場する。思いがけない形で異郷の地、カサブランカでイルザと再会したリックは、その後必ず再びイルザが自分に会いにくるはずだと思い、自分の部屋でウイスキーグラスを傾けながらイルザを待つ。案の定、イルザは彼の部屋に現れるのだが、本当はもう一度自分とやり直そうといいたいくせに、なぜ自分を裏切ったと嫌味を言い、彼女を追い返してしまうのだ。そして、彼女は部屋を出て行き、そんな言葉を口走った自分に嫌悪感を感じ、酒に酔いつぶれる。そのような人間の精神のもろさや矛盾も露呈していて、主人公は単純なタフガイではない人間味を併せ持つキャラクターとして描かれており、この辺りは多いに共感が持てる。素直になればいいものを、ついつい嫌味をいってしまい後悔するのはわれわれの夫婦喧嘩のいつものパターンだから、リックの気持ちは非情によくわかるのだ。
 
 しかし、表層的なファッションだけでなく、“ハードボイルド”はあくまでも、いかなる時も自己の信条に忠実に行動する生き様を表現する言葉のはずで、リックの生き方はそういう意味で確かにハードボイルドなのだ。イルザがパリ駅からリックと共にマルセイユに逃れる約束を破ったのは、実はラズロの妻だったからであることをイルザの口から知らされる(なんのことはない、イルザはレジスタンスである夫ラズロがナチスに拘留されている間にリックと不倫を楽しんでいたのだから、むかつく女といえる)。イルザが夫ラズロと共に再びカサブランカに現れたのも夫とアメリカに亡命する機会をうかがうためであるし(カサブランカはヨーロッパからアメリカに亡命する窓口だった)、自分に近づいて来たのもウーガーテから預かった通行証目当てであろうことも承知するリックだが、再びイルザを奪い返すことが可能なことも確信するのだ(客観的に見てもリックのたくましい野性味をもってすれば、インテリの夫ラズロから彼女を奪い返すことも可能と思える)。実際、リックは再びよりを戻さないかとイルザに迫るし、イルザもその気になってラズロを捨て、リックと共にアメリカに渡る決意もする。通常の男であれば、「やったー、イルザと一緒にアメリカに帰れる!」と喜び勇んで旅支度をするところであろう。しかし、リックのとった行動は大方の予想を覆し、この映画を決定的に永遠の恋愛映画とするにふさわしい結末を迎える。リックは夜霧の飛行場で、イルザとラズロを飛行機に乗せた後、自分は飛行機に乗らず、ラズロを逮捕しようと追って来たナチスのシュトラッサー少佐を撃ち殺してしまうのだ。これは、ハードボイルドでカッコいいです。しかも、そばで見ていたフランス警察署長のルノーまでが反ナチス精神に目覚めてリックにシンパシーを感じ、リックの殺人を見逃して逃走することを勧め、ふたりは男の友情を感じながら仲良く夜霧の飛行場を歩くシーンで幕を降ろすのだ。これはよく出来たハードボイルド仕立てのロマンチックな展開だ。なぜ,リックはイルザを奪い返して飛行機に乗らなかったのだろう。イルザを愛していればこそ、尊敬する夫を裏切らせないことが愛の証といえる、というのが通常の解釈だろう。一人の女性を幸福にすることこそが男子一生の仕事と自覚する時、時には自分以上に適役の男がいれば、その男に最愛の女を譲ることも男子のなすべき事と考えるのがリックの男の美学だろう。ハードボイルドなのだ。あるいは、パリでの美しい思い出を永遠のものにしてしまいたかったのかもしれない。たとえ、結婚したとしても、二人の生活は平凡な日常に埋没する事は避けられない。二人の輝くような思い出を過去に閉じ込め、思い出の中に生きる後ろ向きの生き方をあえて選んだのかもしれない。とても悲しい、強い男でなければそうは出来ないタフな生き方を。普通の人間は前向きに生きなければ健全な精神を保てないのだから。
 
 一般に“ハードボイルド”という言葉はタフで非情な主人公が登場する暴力に肯定的なエンタテイメントの一つのジャンルを示す用語のように受け取られているので、現実世界の中でハードボイルドな生き方をする事は難しい。拳銃を所持して暴力世界での生活を日常としている人間は極めて限定されているだろう。にもかかわらず、多くの人からハードボイルドが支持されるのは、ハードボイルド的精神だろう。“ハードボイルド的”生き方に人々は憧れるからこそ、多くの支持が得られるのだ。ハードボイルド的生き方は暴力とは無関係で、己の信じる確固とした行動規範を心の中に築いている生き方であり、しかも自己犠牲を厭わない生き方である。こういう生き方を日本人は伝統的に支持する精神傾向があり、武士道を尊ぶ精神に通じる。“ハードボイルド”的生き方は単に型ゆで卵で食えないような強靭さだけでなく、タキシード姿のリックがそうであるように、格好良さや底辺の美学も同時に伴っているニュアンスがあり、そこが人々に支持されている所以だろう。少なくとも僕には“ハードボイルド”な生き方とは、信念に基づいて生きる生き方にプラスして自己犠牲の美学を伴う生き方をいうように思える。自己陶酔的生き方ともいえる。やはり人は美しくあるべきなのだ。カサブランカが大衆に支持される所以は、まさに大衆は美学を求めているからだ。それほど、現実世界で美しく生きるのは難しい。
 
 ここまで、カサブランカの魅力について考えて来たが、結局その魅力の源泉は人の心の美しさであり、つまるところ愛であろう。愛がベースにあるから人は人のために犠牲になることが出来るのだ。カサブランカの魅力の源泉は愛であります。
 
 結局、映画に美学を求めるのは、現実世界において美学を貫くことが困難であることの裏返しだ。しかし、どうせ生きるなら、この現実世界でも美しく生きたいものです。誰もがハンフリーボガードのようにカッコ良く生きることは難しいけれど、美しく生きることはそれほど難しくない。どのような生き方が美しい生き方というかは人それぞれだろうが、宗教や哲学や道徳に規範を求め,行動指針が常にぶれないような生き方は、どのような規範であれ、それなりに美しいと思う。自分が思う一つの美しい生き方とは、プロ意識に乗っとった生き方だ。現代において、強い信念をもって自己犠牲も厭わない一つの生き方は、プロフェッショナルであり続ける生き方のことではないだろうか。自分は職責に忠実な人を無条件に尊敬出来る。初めて総合病院に歯科医師として勤務した若き日に出会った周りの医師達は、皆職務に忠実な良心的医師ばかりであった。そこでの医師たちは、朝早くから夜遅くまで、日曜や休日の区別もなく、自分の時間の多くを勤務に費やしていた。プロフェッショナルと呼ぶにふさわしい人たちであり、感動した。医師だけではなく、どのような職業でも社会に貢献するのだから、職責に忠実に行動すること自体、とても尊く、美しい生き方といわざるを得ない。刺しても痛くない極細の針を造れる町工場の親父さんも、味覚で人を喜ばせるシェフや寿司職人も、敬意を持って死者をあの世に送り出す納棺師も(最近、アカデミー賞を受賞した映画“送り人”を見たのですが、よかったです)、職務に忠実なプロフェッショナルである限り、きちんと社会貢献をしておられ、皆すばらしい人々であると思います。宗教や難しい哲学などはなくても、自分の職業に真剣に取り組んでいることだけで、十分美しい生き方が出来るのではないでしょうか。行動指針がぶれず、そして時には自己を犠牲にしてでも職務に忠実に行動する。それが美しい生き方だと自分は思う。そして美しく生きることはそれほど難しくない。ちょっぴり、愛の気持ちが心にあればいいと思う。そのような心持ちで歯科医としての日々を過ごしていきたいものです。
 
平成21年3月21日

オバマ大統領と福沢諭吉~二人の賢人は危機を救う~

2009年1月25日のオバマ米国大統領就任式の模様をCNNで見た。ワシントンDCは全米各地から大勢の人(200万人以上とのこと)が押し寄せ、大変な活況だった。新大統領の就任演説は日本時間の深夜ゆえリアルタイムでは聞けなかったから、後日インターネットでチェックしたのだが、少なからず感動してしまった(それにしても就任演説の全文が、原文と翻訳の両方ともに、ネットで直後に入手可能とは、便利な世の中になったものです)。そして、やはり米国はまだ捨てたものじゃないな、素敵な国だな、と感動し率直にうらやましく思った。
 
彼の演説がどのように感動的だったかというと、おそらくそれは自分の今の心情とシンクロナイズしているからだと思うのだが、米国民にしっかり地に足をつけた生活をする価値を思い起こさせたことだ。そして、国民は国家から何を享受出来るかを考えるのではなく、国家に対して何が出来るかを考えるべきだと、呼びかけたことだ。これは自分のハートを打った。今の自分は、地に足をつけた生活をする事の大切さを痛感しているし、社会のために奉仕する精神が国を救い、自分をも救う事を理解出来るからだ。この部分は、ジョンFケネディの大統領就任演説の有名なフレーズ、“そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。”を思い起こさせる。もちろん両者の言い回しは異なり、オバマ大統領の方は、“アメリカ国民は、自分自身に対して、国家に対して、世界に対して責任を負っている”と表現している。要するに両者とも、自分が社会から何を受け取れるかではなく、何を与えられるかを考えることが、アメリカ再生の鍵である、といっているように思える。国民の一人一人が、国を変えていこう、国を支えていこうとする気概を持たなければ米国は再生出来ないだろうが、アメリカは必ず再生すると彼は断言するのだ。なぜなら米国民は、祖先の偉大なる建国の精神を引き継いでいるからという。
 
アメリカ建国の精神に言及した部分はとても素敵なフレーズなので、少し引用してみます。「目の前に広がる道を眺めながら、まさに今この時、遠い砂漠や遥かな山岳で警備にあたっている勇敢なアメリカ人達を思い、謙虚に感謝します。今の兵士達は多くのことを教えてくれるし、アーリントンの国立墓地に眠る戦死者たちは時を超えて囁き続けています。兵士たちを称えるのは、私たちの自由を守ってくれるからだけではなく、奉仕の精神を体現しているからです。自分たちよりも大きな何かに意味を見いだそうという、その意欲のことです。そして今この時、私たちの時代を決定付けようというまさにこの瞬間、私たち全員に求められているのは文字通り、この奉仕の精神なのです。」「それはたとえば、防波堤が決壊した時に赤の他人を自分の家に迎え入れる優しさだったり、仲間が職を失うのを見るよりは自分の勤務時間を減らした方がいいという無私な労働者の思いやりであり、そういう心持ちが真っ暗な時代を乗り切るのに必要なのです。私たちの運命を最後に決めるのは、煙が充満した階段に飛び込んでいく消防士の勇気もそうですし、あるいは子供を育てようという親のやる気でもあるのです。」「しかし、私たちが成功するには、勤勉や正直、勇気や公平、寛容と好奇心、忠誠と愛国心といった価値観が必要なのです。昔からの古い価値観です。真実の、本物の価値観です。そういう価値観こそが、私たちの歴史をずっと静かに前進させて来たのです。今何が求められているかというと、こういう真実に立ち返ること。今、私たちに求められているのは新しい責任の時代に入ることです。すべてのアメリカ人が、自分たち自身への責任と、国への責任と、世界への責任を認識することが必要です。嫌々、不承不承に責務を担うのではなく、難しい仕事に全身全霊を尽くすことほど、心が充実し、人格を作り上げてくれるものはないのだとしっかり認識した上で、進んで喜んで責任を受け入れることが,今必要なのです。」
 
アメリカ建国の精神を持ち出されると、これにはグラリとやられる。そして、これは完璧にアメリカの人々を感動させるだろう。かく言う自分もアメリカ建国精神が大好きなのだ(建国期のアメリカを描いたメル・ギブソンの“パトリオット”は自分の好きな映画です)。おそらくこれは自分の前世が建国期の米国人であったことと関係しているのだが(自分の前世は南北戦争時代を生きた南軍の少佐です。もちろんこれは自分が酔った時の得意のジョークですが)。恐らく、人間がとてつもない力強さをもって何かに邁進出来る時というのは、強い志を心に抱いてその実現に努力している時だろうと思う。特にその志が宗教的なものであれば、なおさらであろう。今まであまり気づかなかったが、やはりアメリカという国はキリスト教を基盤としているのだ。オバマ大統領の演説の最後は、「ありがとう。神の祝福がありますように。そして神がアメリカ合衆国を祝福くださいますように。」で締めくくられるところに見られるように。
 
オバマ大統領の演説を聴いていて、アメリカ建国も宗教的なエネルギーを原動力としていた事に気づかされた。そもそもアメリカを建国した人たちは移民であり、かれらは敬虔なピューリタンやクエーカー教徒だったから、質素、倹約、節制、誠実、勤勉、というような言葉で表現されるような高い道徳を身につけた人たちであったろう。そして本国イギリスでは彼らの宗教的価値観が認められなかったからこそ、アメリカに彼らの信じる価値観に基づく自由と平等の理想国家を建設しようとしたのだ。人は皆平等で、才能があれば誰でも頭角を表す事が出来る社会を。隣人を愛し、隣人に奉仕することを尊ぶ社会を。何もないところから国家を建設するのは大変に困難な作業であり、宗教的な心の支えが無くてはなし得なかった事が、ある程度年齢を重ねた今の自分には理解出来る。アメリカは人間が神に誓いを立てて、神の祝福を信じて建国したキリスト教の国家なのだ。建国の理念には、人間以上のものに対する敬いと、人間として果たさなければならない責任や使命感が熱く込められているように思う。 
 
しかし、ここに来て現代のアメリカ人は、祖先の敬虔な精神を忘れ、いささか違った方向に向かっていたようだ。その結果、大変な経済危機を招き、同時に全世界を巻き込んでいる。そのよって来る原因は何だったのだろう。それはオバマ大統領が指摘してみせた通り、それは建国の理念と直接関係するのだが、神の祝福のもとに人として生を受けた以上、人として果たさなければならない勤めがある事の認識が希薄になっていたことに由来するのだ。額に汗して働いた労働の対価としての報酬でなく、金融工学を駆使してお金にお金を投資し、巨額の利益を生み出す実体のない経済システムを発展させた現代のアメリカ人は拝金主義といわざるを得ない。自分はキリスト教徒ではないが、これはキリスト教の信じる価値観にはそぐわないのではないでしょうか。そもそも、一握りの超富裕層と大多数の貧困層しか存在しない社会というのは、どう考えても不平等であり、建国の理念が希薄化している兆候と思う。もっと正確にいえば、なぜアメリカを建国する必要があったかという国の礎を築いた祖先のスピリットの部分を忘れた結果だと思う。アメリカは建国以来、独立宣言に忠実に突き進んで来たかもしれない。独立宣言は「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げたとても重い意味のある宣言である。しかし、その権利は、建国時代の人たちがそうであったように、高い道徳をふまえた上で求められるべきであることを忘れているかのように見える。そうなのだ、現代のアメリカに欠けているのはこの道徳心でしょう。さしたる苦労をせずに祖先の遺産を引き継ぐうちに、精神力や道徳の衰退を招くことは、洋の東西を問わぬ真実かも知れない。
 
そして今回、オバマ新大統領が強調した事は、アメリカを築いた原点のスピリットをもう一度思い起こす事であるが、これはとても時宜を得た重要な指摘だと思う。自分はアメリカ人ではないが感動した。建国時代のアメリカ人(というか移民)は極めて強い宗教心を持っていたはずであり、極めて高い道徳心を持っていたはずなのである。自分が尊重されたいなら、隣人も尊重しなければならないと考えたはずだし、自分の能力は社会に奉仕するために神から授かったと考えていたに違いないのだ。
 
ところで、オバマ大統領の演説を聴いて、我が国にもかつて同様の事を唱えた賢人がいた事を思い出した。福沢諭吉である。最近、彼の「学問のすゝめ」を読んだのだが、諭吉の国づくりのビジョンは、「この国を自分たちの手で支えていくのだ」という思いを一人一人の国民が持った、共和制のような国をつくることだったようだ。そのような国が実際に世界に存在することを知った諭吉は(かれはトマス・ジェファソンのアメリカ独立宣言の全文を和訳しています)、我が国も欧米の近代思想を導入しなければ、今のままでは日本は欧米列強に植民地化されてしまうという危機感を強く持ったようだ。
 
  「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(アメリカ独立宣言からの引用らしい)という冒頭の一文しか知らなかった「学問のすすめ」をこの度、初めて最初から最後まで眼を通した。本当に素晴らしいことが書かれている。「学問のすゝめ」は我が国の近代化の原動力となったが、現代においても何ら色あせることなく有益である。全十七編からなるこの古典を要約すると、能力があっても世に出ることが許されない封建制度は不合理であり、新しい世の中に変えなければならない。新しい世の中とは、身分の違いがなく平等な世の中であり、いたずらに権力に平伏することは卑屈で恥じるべき行為である。我々国民が国の主体であるから、我々は国を頼るのではなく、われわれが国を支えなければならない。そして、国を頼らないのなら,何を頼るのか。それが学問である。学問といっても、単に知識を講釈するだけの学問は無益で、地に足をつけて生活するのに役立つ実学こそが有益なのである。実学こそが我々が頼れるものであり、我々を発展させる原動力となるものである。そして学問をすることこそが、我々に生活力を与えるだけでなく、我々を徳の高い人間に成長させ、国を頼らなくても独立して生活することが出来る自立した人間に成長させるのである、といっている。要は学問をすることが身を助け、国家を支えるのである、だから学問をしなければならない、ということだろう。
 
オバマ大統領と福沢諭吉、二人の愛国者に共通の思想とは、「国を支えて国を頼らず」という考え方である。国民一人一人が「独立自尊」を考えれば、個人の集合体である国家も必然的に自立した品格のあるものになるという考え方だ。なぜ、自分がこの二人の言動に着目するのか、というとそれは自分の今の心情にピッタリと当てはまるからだ。彼らの言動が身にしみて、本当に良く分かるのである。彼らの思想が、今の自分の心を打つのである。もっと若い時代にこの真実に気づけば良かったという痛恨の思いが自分にはある。「独立自尊」「自立自助」の精神の価値について、あまりに無頓着であったことが今の自分の最大の反省点である。
 
現代の若者にみられるプータローやフリーター、しいては派遣社員という選択肢はすべて人生の目的意識の希薄さの結果であり、そのような立場にあるために被る不都合はすべて自己責任である!自分が人生の選択肢を見いだせないことを社会のせいにする甘えである。社会の大人に良い規範がないなら、自らが規範となろうとする気概をもてば良い。本国イギリスに失望したからといってくじけず、新大陸での理想国家の建設を志したように、自らが理想の人間像を模索すればよいのだ。すべての結果には原因があり、そしてその原因は自己が作り出したものなのだ。「独立自尊」の精神とは、自己の身上に起こるいっさいのことは自己の行いが招いた結果であり、他者の責任ではないとする心構えのことだと自分は解釈している。すなわち自らの運命は自らが創るという気概なのだ。まさにアメリカ建国の精神であり、我が国を封建社会から近代国家へと導いた精神であろう。アメリカはキリスト教をふまえて建国された国家だと記したが、キリスト教においては、「運命」という概念は、「困難な克服すべき対象」という意味合いでは使われても、決して生前から定められた避ける事のできない定め、即ち運命論の運命という意味ではないと思う。たとえば、何歳の時に結婚し、何歳で事業に成功し、何歳で病気や事故などの不運に見舞われ、何歳で死亡する、などというように、あらかじめ神が計画した「宿命」にしたがってわれわれは生かされている、という考えではない。キリスト教では「天は自ら助くるものを助く」というではないですか。運命とは創るものなのだ。少なくとも建国時代のアメリカ人は、人生は自ら信じた理想を実現するための舞台であり、神との対話のもとで、キリスト教の教えに忠実に、自らの運命を自らが切り拓く生き方をこそよしとし、そのような人間を神は祝福すると考えていたことだろう。
 
今、日本もアメリカも、全世界と共に同時不況の真只中にいるが、この危機を乗り越える原動力の根本は、オバマ大統領や福沢諭吉の唱える「国を支えて国に頼らず」という自主独立の精神ではないでしょうか。現在のアメリカの危機を乗り越える手だてはアメリカにだけ有効なのではない。それは国境を超えて、時代を超えて、普遍的な価値を持ち、今の我が国の危機に対してもやはり有効なのだ。アメリカの開拓者魂が今日のアメリカの繁栄を導いたように、そして、明治初期の福沢諭吉の説いた独立自尊の精神が日本を植民地化から回避させ近代国家へ導いたように、国家の存亡を救うのは常に国民一人一人の自覚にかかっているのだ。「国を支えて、国を頼らず」という自覚こそが、この国を救う。個人の人生の存亡を救うのも、同じくこの心構えだ。「独立自尊」「自立自助」の精神は経済危機だけではなく、人生の艱難辛苦を乗り越えるための普遍的な真理ではないかという気がする。人を頼らないのだから、必要なのは勇気だ。勇気を出すには心の支えがいる。心の支えは、ある人にとっては宗教であり、ある人にとっては道徳であり、ある人にとっては哲学であり、時代を超えて普遍的に価値を持つものであればそれでよい。それは学問をする事から得られる。学問というといかめしいから、勉強すると言い換えても良い。勉強する事で、自分が信じられる普遍的価値を見つけられる。必要なのはそのような普遍的価値をもつものに自己の行動の規範を求めること。そうしてこそ、個人が責任と品格を持った人格を身につけ、そのような構成員を持った国家は品格のある国家となる。現在の危機が過ぎ去った後には、このような時代が訪れる事を信じたい。
 
現在の日本の危機は、単にアメリカ発の経済危機が日本に波及しただけのことではない。危機の本質は不況にあるのではなく、不況に右往左往してしまう精神力の劣化や、自分が生き延びるためなら何でもありの振る舞いに見られる道徳心の低下こそがこの国の危機の本質なのだ。その背景にはアメリカ同様、苦労の末に自ら勝ち取ったものでなく、祖先の遺産を安易に引き継ぐ過程で、精神の劣化を来している現実がある。したがって、この国が活力を取り戻すためには、アメリカの指導者が建国精神への立ち返りを呼びかけたように、我が国の伝統的良心を呼び起こす国民的精神運動が必要だ。そのヒントが福沢諭吉である。
 
  独立自尊の精神は、個人を救い、国を救い、この世界を救うと信じる。この激動の時代に生を受けたことに喜びと感謝を捧げ、この稿を終わります。本当に我々はドラマ仕立てのような激動の時代を生きているのですね。なんだかワクワクしますね。
 
2009年2月22日