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2009年3月

カサブランカ

土曜の夜、ほっとした開放感から、映画「カサブランカ」を自宅のDVDで見た。少し疲れを感じた時は古い映画を見てなごむ事が多いのだが、「カサブランカ」は間違いなく期待を裏切らない作品だ。いつも見終わった時にはとてもいい気分になっている。恋愛映画の金字塔と云われる本作品は1942年制作だから、ずいぶんとクラシックな映画なのだが、DVD版の画質はとても上質で、白黒だが古めかしさを感じさせない。何度見ても楽しめる僕の大好きな映画の一つだ。これまでに繰り返し見ているから、これが何度目か分からない。僕が生まれる前の映画だから、最初に見たのはNHKの映画放送だった。その後、何度もテレビの映画放送で見たし、自分でもビデオを購入し、今はDVD版でも持っている。
 
 なぜ、映画「カサブランカ」はこれほどまでに僕を含めて多くの人を魅了し続けているのだろう?アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞の3部門を受賞した不朽の名作であるから、映画としての完成度が高いのは当然なのだが、それにしても70年近く前の映画が現代においても魅力を放ち続ける理由について考えてみる価値はありそうだ。そこには、なにか普遍的な人を惹きつける要素というものがあるに違いない。
 
 まず、音楽。これがよい。劇中で流れる“時の過ぎ行くままに”は、学生時代に下宿で聞いていたFM放送の何かの番組でよく流れていたからとても懐かしい、というのは個人的な理由に過ぎないが、メロディそのものが魅惑的であることは間違いないのだ。この楽曲は劇中でも重要な役割りを果たしていて、フランス領モロッコにあるカサブランカの酒場の経営者である主人公リック(ハンフリーボガード)は黒人ピアノ弾きサムに普段はこの曲を弾くことを禁じていた。ある夜、自分の酒場でこの曲が演奏されるのを聞き、サムに演奏を中止させようとオフィスから酒場に降りてくるのだが、なんとその場で、自分がパリで別れた昔の彼女イルザ(イングリッドバーグマン)と出くわす。実はその曲をリクエストしたのはイルザだったのだ。その曲こそがリックとイルザが二人でよく聞いた思いで深い曲であり、過去を忘れたいリックはサムにその曲の演奏を禁じていたのだった、という設定で、音楽が劇中で主人公と昔の彼女との再会の重要な場面で使われている。だからとてもセンチメンタルなメロディの楽曲が必要なのだが、“時の過ぎ行くままに”はまさにその場にぴったりの音楽だ。
 
 二番目の要素は、インターナショナルな情緒だ。アメリカ人であるリックとオスロ出身のイルザがパリで出会い、恋に落ちる、というところからしてインターナショナルだが、パリでイルザに裏切られ、失意の日々を過ごすリックが再び彼女と巡り会う場所がアフリカのフランス領モロッコという舞台設定もインターナショナルでエキゾチックだ。ナチスドイツがヨーロッパ全土に侵攻を進めている第二次大戦下のモロッコが舞台だから、モロッコを統治するフランス植民地警察所長ルノーや、そのフランスを支配下に置くドイツ陸軍シュトラッサー少佐も登場する、というように非常に登場人物もインターナショナルなのだ。
 
 三番目の要素として、そしてこれこそが最も重要なのだが、全編に流れるハードボイルドなムードが挙げられる。ハードボイルドといえば、今ではバーボンとトレンチコートが定番のようになっているが、そのルーツは本作品らしい。ドイツ軍の侵攻を逃れて共にマルセイユに逃れる約束をイルザと交わしたにもかかわらず、雨のパリ駅で待ちぼうけを食わされズブ濡れになる時も、ラストシーンの夜霧のむせぶ飛行場でイルザとその夫ラズロをリスボン行きの飛行機に乗せて見送る時も、リックはトレンチコートに身を包んでいるのだが、確かにトレンチコートは男の哀愁を漂わせて格好いい。ウイスキーも重要な効果を演出していて、人間の心の弱さの象徴として、そして同時に男の格好良さの象徴として登場する。忘れたくても忘れられないイルザとの過去を引きずりながら苦悩するリックは、夜一人自分の部屋でウイスキーを煽る。机の上にはウイスキーボトルとグラスがおいてあり、タバコを燻らせながらグラスを煽るのは格好いい(白人は、日本人のように南京豆やさきいかなどのつまみをとらずに、酒だけをひたすらグビグビ煽るみたいです。これは格好いいけど健康にはよくないですね。数年前にイギリスとアイルランドを旅行した時も、パブでは誰一人としてつまみを食べていなかった)。ウイスキーは格好いいだけではなく、心の弱さの象徴としても登場する。思いがけない形で異郷の地、カサブランカでイルザと再会したリックは、その後必ず再びイルザが自分に会いにくるはずだと思い、自分の部屋でウイスキーグラスを傾けながらイルザを待つ。案の定、イルザは彼の部屋に現れるのだが、本当はもう一度自分とやり直そうといいたいくせに、なぜ自分を裏切ったと嫌味を言い、彼女を追い返してしまうのだ。そして、彼女は部屋を出て行き、そんな言葉を口走った自分に嫌悪感を感じ、酒に酔いつぶれる。そのような人間の精神のもろさや矛盾も露呈していて、主人公は単純なタフガイではない人間味を併せ持つキャラクターとして描かれており、この辺りは多いに共感が持てる。素直になればいいものを、ついつい嫌味をいってしまい後悔するのはわれわれの夫婦喧嘩のいつものパターンだから、リックの気持ちは非情によくわかるのだ。
 
 しかし、表層的なファッションだけでなく、“ハードボイルド”はあくまでも、いかなる時も自己の信条に忠実に行動する生き様を表現する言葉のはずで、リックの生き方はそういう意味で確かにハードボイルドなのだ。イルザがパリ駅からリックと共にマルセイユに逃れる約束を破ったのは、実はラズロの妻だったからであることをイルザの口から知らされる(なんのことはない、イルザはレジスタンスである夫ラズロがナチスに拘留されている間にリックと不倫を楽しんでいたのだから、むかつく女といえる)。イルザが夫ラズロと共に再びカサブランカに現れたのも夫とアメリカに亡命する機会をうかがうためであるし(カサブランカはヨーロッパからアメリカに亡命する窓口だった)、自分に近づいて来たのもウーガーテから預かった通行証目当てであろうことも承知するリックだが、再びイルザを奪い返すことが可能なことも確信するのだ(客観的に見てもリックのたくましい野性味をもってすれば、インテリの夫ラズロから彼女を奪い返すことも可能と思える)。実際、リックは再びよりを戻さないかとイルザに迫るし、イルザもその気になってラズロを捨て、リックと共にアメリカに渡る決意もする。通常の男であれば、「やったー、イルザと一緒にアメリカに帰れる!」と喜び勇んで旅支度をするところであろう。しかし、リックのとった行動は大方の予想を覆し、この映画を決定的に永遠の恋愛映画とするにふさわしい結末を迎える。リックは夜霧の飛行場で、イルザとラズロを飛行機に乗せた後、自分は飛行機に乗らず、ラズロを逮捕しようと追って来たナチスのシュトラッサー少佐を撃ち殺してしまうのだ。これは、ハードボイルドでカッコいいです。しかも、そばで見ていたフランス警察署長のルノーまでが反ナチス精神に目覚めてリックにシンパシーを感じ、リックの殺人を見逃して逃走することを勧め、ふたりは男の友情を感じながら仲良く夜霧の飛行場を歩くシーンで幕を降ろすのだ。これはよく出来たハードボイルド仕立てのロマンチックな展開だ。なぜ,リックはイルザを奪い返して飛行機に乗らなかったのだろう。イルザを愛していればこそ、尊敬する夫を裏切らせないことが愛の証といえる、というのが通常の解釈だろう。一人の女性を幸福にすることこそが男子一生の仕事と自覚する時、時には自分以上に適役の男がいれば、その男に最愛の女を譲ることも男子のなすべき事と考えるのがリックの男の美学だろう。ハードボイルドなのだ。あるいは、パリでの美しい思い出を永遠のものにしてしまいたかったのかもしれない。たとえ、結婚したとしても、二人の生活は平凡な日常に埋没する事は避けられない。二人の輝くような思い出を過去に閉じ込め、思い出の中に生きる後ろ向きの生き方をあえて選んだのかもしれない。とても悲しい、強い男でなければそうは出来ないタフな生き方を。普通の人間は前向きに生きなければ健全な精神を保てないのだから。
 
 一般に“ハードボイルド”という言葉はタフで非情な主人公が登場する暴力に肯定的なエンタテイメントの一つのジャンルを示す用語のように受け取られているので、現実世界の中でハードボイルドな生き方をする事は難しい。拳銃を所持して暴力世界での生活を日常としている人間は極めて限定されているだろう。にもかかわらず、多くの人からハードボイルドが支持されるのは、ハードボイルド的精神だろう。“ハードボイルド的”生き方に人々は憧れるからこそ、多くの支持が得られるのだ。ハードボイルド的生き方は暴力とは無関係で、己の信じる確固とした行動規範を心の中に築いている生き方であり、しかも自己犠牲を厭わない生き方である。こういう生き方を日本人は伝統的に支持する精神傾向があり、武士道を尊ぶ精神に通じる。“ハードボイルド”的生き方は単に型ゆで卵で食えないような強靭さだけでなく、タキシード姿のリックがそうであるように、格好良さや底辺の美学も同時に伴っているニュアンスがあり、そこが人々に支持されている所以だろう。少なくとも僕には“ハードボイルド”な生き方とは、信念に基づいて生きる生き方にプラスして自己犠牲の美学を伴う生き方をいうように思える。自己陶酔的生き方ともいえる。やはり人は美しくあるべきなのだ。カサブランカが大衆に支持される所以は、まさに大衆は美学を求めているからだ。それほど、現実世界で美しく生きるのは難しい。
 
 ここまで、カサブランカの魅力について考えて来たが、結局その魅力の源泉は人の心の美しさであり、つまるところ愛であろう。愛がベースにあるから人は人のために犠牲になることが出来るのだ。カサブランカの魅力の源泉は愛であります。
 
 結局、映画に美学を求めるのは、現実世界において美学を貫くことが困難であることの裏返しだ。しかし、どうせ生きるなら、この現実世界でも美しく生きたいものです。誰もがハンフリーボガードのようにカッコ良く生きることは難しいけれど、美しく生きることはそれほど難しくない。どのような生き方が美しい生き方というかは人それぞれだろうが、宗教や哲学や道徳に規範を求め,行動指針が常にぶれないような生き方は、どのような規範であれ、それなりに美しいと思う。自分が思う一つの美しい生き方とは、プロ意識に乗っとった生き方だ。現代において、強い信念をもって自己犠牲も厭わない一つの生き方は、プロフェッショナルであり続ける生き方のことではないだろうか。自分は職責に忠実な人を無条件に尊敬出来る。初めて総合病院に歯科医師として勤務した若き日に出会った周りの医師達は、皆職務に忠実な良心的医師ばかりであった。そこでの医師たちは、朝早くから夜遅くまで、日曜や休日の区別もなく、自分の時間の多くを勤務に費やしていた。プロフェッショナルと呼ぶにふさわしい人たちであり、感動した。医師だけではなく、どのような職業でも社会に貢献するのだから、職責に忠実に行動すること自体、とても尊く、美しい生き方といわざるを得ない。刺しても痛くない極細の針を造れる町工場の親父さんも、味覚で人を喜ばせるシェフや寿司職人も、敬意を持って死者をあの世に送り出す納棺師も(最近、アカデミー賞を受賞した映画“送り人”を見たのですが、よかったです)、職務に忠実なプロフェッショナルである限り、きちんと社会貢献をしておられ、皆すばらしい人々であると思います。宗教や難しい哲学などはなくても、自分の職業に真剣に取り組んでいることだけで、十分美しい生き方が出来るのではないでしょうか。行動指針がぶれず、そして時には自己を犠牲にしてでも職務に忠実に行動する。それが美しい生き方だと自分は思う。そして美しく生きることはそれほど難しくない。ちょっぴり、愛の気持ちが心にあればいいと思う。そのような心持ちで歯科医としての日々を過ごしていきたいものです。
 
平成21年3月21日
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